11月4日(土曜日)に、トキワ荘跡地のオフィスビル4階(日本加除出版)で、「トキワ荘塾」を開催する運びとなりました。
『親友が語る手塚治虫の少年時代』の販促イベントとしての開催ですが、ゲストに、手塚先生のサブチーフアシスタント・伴俊男さん(『手塚治虫物語』著者)、黒川拓二さん(元「少年キング」編集長、『紙の砦』担当編集者)を迎え、対談イベントを企画しております。
伴さんの登壇の機会は、過去にほとんど無いケースなので、とても濃い話が聞けることを期待しております。

お二人の手塚先生関係者から「田浦さんのためなら」と言って下さったことが本当に嬉しかったです。
そして、やはりお二人とも「手塚先生のエピソードがいいよね」という話になりました。

万障お繰り合わせの上、ご参加ください。

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第9回 トキワ荘塾 対談「手塚治虫の少年時代」のご案内

漫画家・手塚治虫の親族、同級生、仕事関係者の証言を集めた『親友が語る手塚治虫の少年時代』(田浦紀子・高坂史章 編著・和泉書院)が今春、出版されました。NPO法人 日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラムでは、編著者の田浦紀子氏をゲストにお迎えし、本書に登場する手塚治虫のサブ・チーフアシスタントの伴俊男氏、手塚治虫の少年時代を描いた自伝的漫画「紙の砦」の担当編集者・黒川拓二氏との対談イベントを開催いたします。

日時 2017年11月4日(土曜日)午後2時~4時

会場 トキワ荘跡地・日本加除出版(株) 本館4階ホール
    (東京都豊島区南長崎3丁目16番6号)

出演者
 田浦紀子(『親友が語る手塚治虫の少年時代』編著者)
 伴俊男(『手塚治虫物語』著者)
 黒川拓二(「少年キング」元編集長)
 司会:小出幹雄(NPO法人 日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム理事)

内容
 午後2時~4時
  <第1部>「手塚治虫物語」対談・田浦紀子×伴俊男
  <第2部>「紙の砦」対談・田浦紀子×黒川拓二
 ※第2部終了後、田浦紀子・高坂史章 編著『親友が語る手塚治虫の少年時代』サイン本販売会を行います。
 午後4時~ 活性化交流会

参加費 無料、活性化交流会は1,000円(トキワ荘名物チューダーとつまみ付き)

定員 40名(申し込み先着順)

7.参加方法
 氏名(必須)、所属団体、連絡先(電子メール))、活性化交流会に参加するかどうか、を
 メール jimukyoku★tokiwasou.jp(★を@に変換)又はFAX(03-3953-5772)に送信してください。

主催 NPO法人 日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム

登壇者プロフィール

田浦紀子(たうら・のりこ)
1978年大阪市生まれ。京都精華大学卒業。在学時代に、弟の髙坂史章と共に阪神間の手塚治虫ゆかりの地を記した研究誌「虫マップ」を発表。改訂を重ねながら様々な媒体で発信し続ける。近年は大阪を中心に、手塚治虫ゆかりの地をめぐるイベントを主宰。手塚治虫の同級生たちの講演録をまとめた『親友が語る手塚治虫の少年時代』を今春に和泉書院より上梓。

伴俊男(ばん・としお)
1953年、京都市生まれ。1974年、手塚プロダクションに手塚治虫のアシスタントとして参加。雑誌漫画の制作現場のサブ・チーフを務める。「ブラック・ジャック」「三つ目がとおる」など多数の手塚漫画の制作に関わった。手塚没後は『アサヒグラフ』に伝記漫画「手塚治虫物語」を連載、1992年、朝日新聞社より刊行。

黒川拓二(くろかわ・たくじ)
1940年、広島県生まれ。1965年、早稲田大学政治経済学部卒業。1966年、少年画報社へ入社、「少年キング」漫画班に配属。1968年から「ノーマン」などで手塚番を約2年担当。
「ヤングコミック」の編集を経て「少年キング」の編集長。1974年夏の特別読み切り企画では手塚治虫漫画家生活30周年記念として「紙の砦」を担当。後に出版部に移り、2000年、定年退職。

小出幹雄(こいで・みきお)
1958年、トキワ荘のあった豊島区南長崎生まれ。1992年から家業の時計店・スエヒロ堂を継承し、商店会や町内会などの地域活動に参加。2008年よりトキワ荘記念碑設置実行委員会、トキワ荘通り協働プロジェクトの事務局長を歴任。現在、としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会の広報担当、NPO日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム理事。
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新井滋さんの瓢箪


今日10月16日は、手塚ファンの友人・新井滋さんの命日だ。埼玉県日高市の手塚ファンで、私との交流は「新・虫マップ2003」の頃から始まった。「手塚ファンマガジン」の常連投稿者でmixiでは「如月堂」のペンネームを名乗っていた。「将来の夢は古本屋」でその屋号が「如月堂」だというのだ。「ブラック・ジャック」の永遠の恋人・如月恵も関係があるのだろうか。
その新井滋さんと初めて会ったのは2006年の復活第1回の手塚治虫ファン大会だったのか、もう少し前からだったのか記憶は定かではない。とにかく私にラブラブなおじさんで、手紙やメールにも「紀子さん」と書いきて、私のファンを公言していた。少し近すぎる距離感に私は多少じゃけんにしつつ、年に数回ある手塚ファンの懇親会では毎回必ず会い、それより少し前に一緒に手塚ショップをめぐったりもしていた。

一度だけ、池袋でデートした思い出がある。当時、近代建築ファンになりつつある私がフランク・ロイド・ライトの名建築「自由学園明日館を見たい」と言ったのに付き合ってくれた。2008年4月のことだからもうかれこれ10年近く前になる。

自由学園明日館(全景1)

自由学園明日館(ドア)

自由学園明日館(窓1)

自由学園明日館(お茶)

自由学園明日館(食堂1)

自由学園明日館(ドア2)

2010年9月25日の手塚ファン懇親会。それが新井滋さんと会った最後だった。大腸癌でその後一年あまりで亡くなってしまったのだった。

10/9/25 11:53 お返事遅れてごめんなさい。トキワ荘通りで立ち話をしていました。冊子15部ゲットしました。お腹がすいたので松葉で軽~く食べておきますね。あしからず。てはまた。
10/9/25 23:51 きょうは一日ありがとう。地元の駅に着きました。いっぱい話せてうれしかったけど、ほんとはもっと話したかった。明日もどうぞ良い日でありますように。旦那様にもどうぞよろしく。お気をつけて。おやすみなさい。
10/10/21 10:18 いつもお世話になります。19日検査で通院したら即日入院となりました。大腸の腫瘍とか。しばらくご無沙汰します。「如月堂旅行中MIXIご容赦」とでもつぶやいておいてください。どうぞご心配なきよう。ファン大会で会いましょう。
10/11/24 6:38 心温まるお便りありがとうございます。いまはオペ前の検査以外は読書とうたた寝の毎日です。骨休めの時間ですかね、どうぞご心配なく。手近にPCがないのが淋しいですね。ファン大会は何としても参加したいのでドクター&ナースのいうことをしっかり守ろうと思います。それではご夫妻もお体たいせつにね(とくにダンナ!)。ではまた。
10/11/24 20:58 メイルありがとう。やはり大阪のオバチャンの買物には、凄いものがあるんやろね。おっと失言。 初めての入院は、初めてのことばかりなので、今は辛抱できるけど、そのうち飽きるだろうな。大塚英志「映画式まんが家入門」(アスキー新書)という本が面白かったです。とんだところで手塚漫画の勉強ができました。あとの楽しみは、日に一度の妻の訪問かな。苦労をかけるなあと、反省することしきりです。夫婦仲良くね! ではでは。
10/11/27 13:12 お元気ですか。私は元気です(そうでもないか)。きょう、ようやく手術の日程が決まりました。29日(月)午後、病名は大腸ガンだそうです。幸い転移はしていないようで、切れば直るとのこと。ブラック・ジャック先生に身を任せるほかありませんね。取り急ぎご報告まで。ご心配なく。おいら、頑張るぜ。ではでは。
10/11/29 6:33 おはようございます。ゆうべは催眠剤でうつらうつらしていたので、お返事遅れてごめんなさい。温かい励ましのお便りをありがとね。いよいよ本日午後と相なりました。おいら、頑張るぜ。って、こればっかり。川口でイベントとは珍しいですね。野口文雄さんがらみでしょうか? なんとか体調を整えて参加したいものです。ではでは。
10/12/7 12:16 心配ばかりおかけして申し訳ないのですが、実は産後の肥立ち、じゃなくて、術後の経過が芳しくなくて予定が未定の状態です。せっかくのお楽しみに水を差すようで相すみませんが、年内の上京は叶わないかもしれません。皆様方にどうぞよろしくね。のりみさんのメイルは百人力です。ではでは。


それきりメールは途絶えた。何度も何度もメールしたが、それきり返信は無かった。

2011年10月16日の事を私は一生忘れないだろう。心配で不安でたまらない気持ちで2011年を過ごし、唐突に鳴った携帯の着信画面を見て私は瞬時にその意味を理解した。
「新井滋の家内です。今朝、主人が亡くなりました。病院でもずっと「手塚ファンマガジン」を読んでいて田浦紀子さんのことを話していました。自分が集めた手塚コレクションは田浦紀子さんに、それが主人の遺言でした。」
どっとその場に泣き崩れた。「ずっと、心配していたんです。でも、ご連絡できずにおりました。」
だが、私は埼玉県日高市までにはとても遺品整理にすら行けなかった。あまりにも私に対する愛情の深さに悲しすぎてその死すら受け入れられなかったのだ。
そうして三年が経った。ようやく心の整理がついた2014年の10月にご遺族に手紙を書いて、手塚先生の誕生日の11月にお墓参りに行った。
奥様は10歳も年下の美人で、高齢の両親と同居。埼玉県日高市は、本当に車でないと行けないところだった。どうやっても遺品整理なんて私には無理だったのだが、それでも少し後悔した。
集めたコレクションは「見ると悲しいから」と、全て処分されてしまっていて、書斎には手塚キャラのポスターだけが寂しく残っていた。(ちなみに「新宝島」の初版本もあって、今になって借りパクしておけば良かったとか思っている^^;)
生前「火の鳥」の連載誌『マンガ少年』や『COM』を譲り受けていて、これだけが私のコレクションとして手元に残った。

それからさらに三年の月日が経った。10月の命日近くになると「たまにはオイラのことを思い出してくれよ」と言われているようで、時折りとめどもなく涙を流してしまうのだった。
私が本を出版の夢を語った時にこう言われた。「どうせ目指すならベストセラー作家を目指してください」
今年、私は「本の出版」という目標をひとつ達成した。そして、来月11月4日に「トキワ荘塾」で初の東京での手塚イベントを手掛ける。
たぶん生きていたら一番喜んでくれたのが新井滋さんだっただろう。

わが家には、新井家から持ち帰った瓢箪が残されている。もとは、野口勲さん(『COM』「火の鳥」の担当編集者)が経営する「野口のタネ」から育てたものだ。ヒョウタンツギにちなんで瓢箪。その瓢箪に向かって私たち夫婦は「新井滋さんに献杯」と杯を交わしたのだった。

田浦誠治、森晴路資料室長、新井滋さん(2007年の手塚治虫ファン大会)
左から夫・田浦誠治、故・森晴路資料室長(手塚プロ)、故・新井滋さん(2007年の手塚治虫ファン大会)

森晴路資料室と話す新井滋さん
森晴路資料室長と話す新井滋さん(2007年の手塚治虫ファン大会)

新井滋さん、田浦紀子、小林準治さん(2008年4月25日、高田馬場にて)
新井滋さん、田浦紀子、小林準治さん(手塚プロ)
(2008年4月25日、高田馬場にて)

手塚治虫ファン大会2006(復活第1回)にて
手塚治虫ファン大会2006(復活第1回)にて。
高橋英雄さん、アトム、田浦紀子、田浦誠治、森晴路さん(手塚プロ)、新井滋さん、石之博和さん。
弾痕の壁の彼岸花

北野高校の「弾痕壁」のそばに咲いていた彼岸花。
そうか・・・彼の岸に逝ってしまった人たちを弔うためにここに植えられたのか・・・。

昭和20年6月15日の空襲で学校防衛にあたっていた北中生2名が亡くなった。六稜会館地下ギャラリーには、当時、中学二年の中島要昌君がかぶっていた鉄兜が展示されている。物言わぬその鉄兜を見る度に私はそこに「現実の戦争」を肌で感じる。手塚治虫の戦争漫画『カノン』で、生徒をかばって即死した女性教師の姿が描かれている。手塚漫画は時に残酷で、目をそむけたくなるようなシーンが多いのだが、それゆえに強いメッセージを感じる。

中島要君の鉄兜

北野旧本館西壁から摘出された米軍機の銃弾

私は『親友が語る手塚治虫の少年時代』を編集執筆するにあたり、徹底的な実名主義を取った。講演録を起こす中で登場する同級生の名前について、出来る限り尋ねて調べて書き記していくことを心がけた。そして、この作業があと2年遅れていたら「死という現実」の前に出来なかったことだっただろう。おそらくそれは「手塚治虫が主人公の伝記」では必要のないことで、他の人は誰もやらなかった、やろうとしなかったことであろう。

本書において、実は大半の人が故人となっているのだが、ここもあえて故人であることを出来るだけ書き記さないように心がけた。なぜならその時「手塚治虫との同時代」を確かに生きていたからだ。そこには無数の人生とストーリーが存在し、手塚治虫との接点があった。「手塚治虫の北野時代」には「現実の戦争」があって、それこそがやはり手塚漫画の根底に流れるメッセージだったと思う。

取材の中でそのサイドストーリーもいろいろお聞きしたのだが、講演録が軸である以上、どうしても書き記せなかった話も多数ある。その話は投稿文などの形で・・・追々書いていければと思う。

弾痕壁20171005

弾痕壁キャプション

弾痕壁殉難の碑
六稜トークリレー 講演風景

六稜トークリレー 二時間の一人舞台を務めます!

10月7日の六稜トークリレーが無事に終了しました!ある意味、これまでの私の活動の集大成の講演会。前日の不安と緊張感はどこへやら、「二時間の一人舞台」をしっかりと務め上げました。六稜トークリレーは、十数年来の常連参加者だったので見知った顔ぶれも多く、また、年齢層とマナーやモラルの高い六稜OB会ということもあり、アットホームな雰囲気の中でお話しさせていただきました。なんといっても圏内トップクラスの北野高校の正門に、自分の講演ポスター貼ってあったのを見た時はちょっと感動でした(笑)。

六稜トークリレー 正門ポスター

六稜トークリレー 六稜会館入口ポスター

先に来ていた弟の高坂史章と合流し、拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』の販売に来て下さった和泉書院さんに挨拶。

六稜トークリレー 和泉書院販売風景

六稜トークリレー 和泉書院による販売

到着したら、母校・賢明学院の同級生の大竹香里ちゃん夫妻が最前列で待っていてくれて嬉しかった。精華大の後輩で手塚ファンの佃賢一くん、そして、旧知の手塚ファンの田中昭さん(六稜75期)がわざわざ東京からお越しくださいました。田中昭さんは、同期の方に熱心に私の本を宣伝して下さり、藤目幸擴さんなど75期メンバー4人と一緒に参加してくださいました。

10/7六稜トークリレー 藤目幸擴さん、田中昭さんと

先日「紙の砦」の舞台を一緒に歩いた「ザ・淀川」編集長の乃美夏絵さんも来てくださいました。

六稜トークリレー 乃美夏絵さんと

前からざっと数えたところ、事務局含めて実数50名の参加者。まずはイベントとして成功と言えるでしょう。

六稜同窓会会長の笹川忠士さん(六稜74期)の挨拶でスタートし、続いて六稜同窓会催事委員長・谷卓司さん(六稜98期)の挨拶。

六稜トークリレー 笹川忠士さん挨拶

六稜トークリレー 谷卓司さん挨拶

谷さんは『親友が語る手塚治虫の少年時代』の装幀にとどまらず、ほぼディレクションに近い役割を担ってくださいました。昨年の8月から今年の4月まで、実に9か月にわたる長距離マラソンを私と共に伴走して下さったのが谷さんでした。

六稜トークリレー 谷卓司さんと

講師紹介は、手塚治虫さんの同級生・59期金津博直さん。

六稜トークリレー 金津博直さんによる講師紹介

六稜トークリレー 高坂史章挨拶

今回は話の焦点を「手塚治虫の北野時代」に絞りました。冒頭で故・三島佑一さんのことを話しました。そして、金津博直さん、美術部で一緒だった岡原進さん、六稜昆虫研究会で一緒だった林久男さん。なんとか午後2時55分に第1部終了し、「本を購入いただいた方、サインしまーす」と営業して即席サイン会。手塚キャラ・ママーももうすっかり書き慣れたもの。「これは何の絵ですか?」と5人くらいに尋ねられました。

六稜トークリレー サイン会1

六稜トークリレー サイン会2

休憩を挟んで地下ギャラリーに移動。いつもは出ていない「クレオパトラ」などの絵も出ていて驚きました。

六稜トークリレー クレオパトラ

手塚治虫が描いた当時の三木武夫首相の絵なども。

六稜トークリレー 三木武夫首相

六稜トークリレー レオ、アトム、BJ、手塚治虫

地下ギャラリーには六稜同窓会が保管する貴重な資料や絵画が展示されていています。佐伯祐三など著名画家の作品も。

六稜会館 佐伯祐三

六稜トークリレー 金津さんによる展示説明

15分ほど見学の後、再び3階に戻って第2部。後半は私の20年来の「虫マップ」の活動のこと、大阪の手塚治虫ゆかりの地のことを話し、終始和やかな雰囲気で会を終えることが出来ました。

六稜トークリレー 記念撮影

六稜トークリレー 弾痕壁見学
▲イベント終了後、「弾痕の壁」を見学

10/7六稜トークリレー 正門前で記念撮影
ザ・淀川10月号写真

大阪市淀川区のタウン誌「ザ・淀川」の取材を受けました。取材執筆は美人編集長の乃美夏絵さん。
『紙の砦』の冒頭シーンのモデルになった、阪急電車が中津駅に向かって走り込んでくる鉄橋の前で写真を撮っていただきました。手塚治虫が学徒勤労動員で通っていた大阪石綿工業大阪工場の跡地や、『紙の砦』の主人公・大寒鉄郎とヒロイン・岡本京子が話す淀川の河川敷を一緒に歩きました。
10月7日の「六稜トークリレー」のことと合わせて「虫マップ」や拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』の紹介記事を書いてくださいました。
掲載は「ザ・淀川」2017年10月号。9月25日より大阪市淀川区で全戸配布。
後日、ホームページでPDF版が見れます。


“虫マップ”で手塚治虫ゆかりの地へ
10月7日は北野高校で講演会

 マンガ家・手塚治虫さんが旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)の卒業生であることはご存知の方も多いはず。今春、同級生も多く登場する『親友が語る手塚治虫の少年時代』と題した本が出版され、10月7日には同テーマの講演会が毎月一回北野高校内にある六稜会館で開かれている「六稜トークリレー」で行われます。
 講師は、本書の編集・著者の田浦紀子さん。約20年前より阪神間の「手塚治虫ゆかりの地」を訪ね歩くことをライフワークとし、それらを記した「虫マップ」を作成。紙やインターネット等様々な媒体で発信を続けています。
 例えば、北野中学時代の体験が基となった『紙の砦』。時代は戦中、手塚治虫さんは学徒勤労動員により、中津にある大阪石綿工業大阪工場へ通っていました。田浦さんの「虫マップ」によると、冒頭のシーンは中津駅。鉄橋の上を阪急電車が「ゴーッ」と走る風景を今も見ることができます。主人公の大寒鉄郎が、ひと目惚れした岡本京子と話しているのは淀川を望む河川敷と想像できます。
 「『紙の砦』には、過酷な勤労動員や空襲が激化していく様子など当時のエピソードが色濃く描かれています。大阪大空襲で多くの人の死を目の当たりにし、自分もいつ死ぬかわからない中で生に執着する。手塚先生にとっては生きることがマンガを描くことであり、戦争への抵抗が象徴された作品だと思います。戦争が終わって梅田の灯りを見たときの感動の大きさは、その後の作品でも梅田の風景が描かれ続けることから伝わります。未来の子どもたちへの反戦メッセージが込められているように思います」と田浦さん。
 今回出版された『親友が語る手塚治虫の少年時代』は、「虫マップ」の延長として取り組んできた講演会の記録を編集したもの。林久男さん、岡原進さん、金津博直さんなど、北野中学時代の手塚治虫さんの同級生達が、自身の思い出話をいきいきと語っています。
 「同人誌制作にいそしんだ六稜昆虫研究会での活動、教官をも感心させた絵の才能、そして太平洋戦争中の学徒勤労動員。いわゆる〝手塚治虫伝〟とは少し違う真実の姿にふれてもらえたら」と田浦さん。講演会当日は、手塚治虫さんの直筆イラストや北野中学時代の同人誌『昆蟲の世界』など貴重な展示の見学会も実施します。
マップ特集最終
TR156-171007(確定版)

10月7日(土曜日)に、手塚先生の母校の北野高校・六稜同窓会館で講演いたします。
http://www.rikuryo.or.jp/activity/talkrelay/
毎月原則第1土曜日に開催している「六稜トークリレー」の一環で、『親友が語る手塚治虫の少年時代』の装幀を手掛けた谷卓司さんが、毎回司会ととりまとめをしている関係で、この度、私が登壇させていただく機会を作っていただきました。
普段は六稜OB,OBの方が講演されるのですが、北野卒業生以外の講演は異例中の異例です。
また、六稜同窓会事務局のご配慮で、手塚先生の北野中学時代のデッサンや同人誌『昆蟲の世界』、講演時に模造紙に描いた直筆イラストなどが収蔵された、地下のギャラリーも開けていただき、見学の機会を設けます。
普段は一般には入れない北野の校舎や弾痕の壁(メモリアルウォール)もご覧いただく貴重な機会と思いますので、是非ともご参集ください。

日時:2017年10月7日(土曜日)午後2時~(開場・午後1時半)
会場:大阪府立北野高等学校 六稜会館3階ホール
参加費:500円(六稜同窓会維持協力金)
岡原邸出版祝賀会1 - コピー
岡原邸出版祝賀会2 - コピー

8月15日の終戦記念日に、手塚治虫さんの北野中学時代の同級生の岡原進さんに招かれてご自宅を訪問しました。岡原さんはカメラマンで、『親友が語る手塚治虫の少年』の表紙の手塚治虫の写真は1966年に岡原さんが撮影したもの。「まるであつらえたように」と岡原さんが言うように、本書の表紙にぴったりの写真です。もちろん、これは本書デザイナー谷卓司さんの装幀のおかげとも言えます。

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今回はごく内輪の出版祝賀会を兼ねていて、私、夫、谷卓司さん、岡原進さんの4人で持ち寄りパーティー的な会となりました。
岡原進さんは、手塚治虫さんとはクラスは違うものの美術部で一緒。ご自宅の階段には岡原さんが描かれた水彩画が飾られていました。

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リビングにグランドピアノがあったので、手すさびに「鉄腕アトム」を弾いたりしました。

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岡原進さんは陸軍少将の父を持ち、北野中学を3年で中退して陸軍特別幹部候補生を志願して戦争に行きました。飛行機乗りとなり、1945年1月マレーシアに派遣され、同年8月15日終戦。降伏軍人として、イギリス軍の監視の下、レンパン島(無人島)で開墾作業をして生活しました。無人島でタピオカを栽培して食いつないだことなど、リアルな戦争体験を聞きました。
戦後の1961年に手塚治虫さんと再会し、1962年と1966年と2回、富士見台の虫プロを訪問しています。

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リビングの部屋にかけられた「鉄腕アトム」の色紙は1962年の訪問時に貰ったもの。1966年に撮影した虫プロで原稿を描く手塚治虫さんの写真アルバムも見せていただきました。(このうち何点かは『親友が語る手塚治虫の少年』に収録しています)

岡原邸出版祝賀会4

岡原さんは、関係者の中で『親友が語る手塚治虫の少年』の刊行後に一番親身になって販促活動を頑張って下さっています。
やはり自分の撮った写真の表紙が本屋に並んでいるのは嬉しいようです。
中之島手書きゆかりの地マップ
NHK大阪放送局制作の、中之島界隈の手塚治虫ゆかりの地特集番組の制作に協力しました。
番組は、7月29日(土曜日)朝7時半~8時NHK総合の「ウィークエンド関西 西日本の旅」です。
http://www4.nhk.or.jp/P2850/
関西ローカルの番組ですが、放送後に一週間ほどHPにて動画が公開されるようです。

先日『陽だまりの樹』の舞台の適塾、カールツァイスⅡ型プラネタリウムが展示保存されている、大阪市立科学館、大阪大学跡地でロケを行いました。
写真は、スケッチブックに中之島界隈の地図を描いてみました。色鉛筆で描き、そこにゆかりの地をふき出しでプロット。

ロケ撮影中

ロケ終了後記念撮影
ロケ後にNHKの撮影クルーの方と一緒に記念撮影。右からディレクターの新井直之さん、アナウンサーの松苗竜太郎さん、カメラマンと撮影スタッフの方。

大阪市立科学館

科学館所蔵の手塚治虫色紙
科学館での打ち合わせの際、『漫画天文学』の絵の上に描かれた手塚先生のサインを出していただきました。
月刊島民201706 紹介記事1

今月の「月刊島民」(京阪電鉄のフリーペーパー)で拙著をご紹介いただきました。
執筆した江口由夏さんは、2014年7月号の特集「手塚治虫が歩いた道。」で組んでいた編集者です。
手塚プロの森晴路さんの急逝がきっかけて「手塚治虫が歴史になってしまう」という危機感を感じ、出版を決意したきっかけ。「漫画家になる前の手塚との思い出を飾らない言葉で語っている」「こいうった本が、手塚治虫を現代に生かし続けているのは間違いない。」等々、私のこの本に対する「思い」の部分をきちんとまとめてくださいました。本当にありがとうございました!

月刊島民/ナカノシマ大学の公式サイト
※7月1日頃、6月号のバックナンバーのPDF版が掲載されます。
3京都国際マンガミュージアムイベント2
このたび、和泉書院より『親友が語る手塚治虫の少年時代』を上梓いたしました。本書は、2003年~2007年に開催した、手塚先生の弟妹さんや同級生の方たちの講演録です。手塚プロの小林準治さんにもコラムを寄稿いただき、元アシスタントの伴俊男さんのインタビューを加えて構成した本です。手塚先生の同級生の方たちも米寿を超え、本当にギリギリのタイミング。20年前に「虫マップ」を初めて発表した頃から、一緒に研究活動を行っている私の弟の高坂史章と共編著での出版です。

1京都国際マンガミュージアム外観

その拙著の刊行記念イベント「思い出のなかの手塚少年をたずねて ―『親友が語る手塚治虫の少年時代』著者トークショー」を、6月11日(日曜日)、京都国際マンガミュージアムで開催していただきました。昨年4月に手塚プロの森晴路さんが急逝したことがきっかけで出版を決意したこと、同級生の方たちへの取材の裏話、手塚治虫の自伝漫画『紙の砦』の舞台となった大阪石綿のことなどを語り、濃密な2時間となりました。

2京都国際マンガミュージアムイベント1

4京都国際マンガミュージアムイベント3
▲京都国際マンガミュージアム・雑賀忠宏さんが司会進行。

5京都国際マンガミュージアムイベント4

本書の中で特筆すべきは、ヒョウタンツギ、スパイダー、ママー、ブクツギキュなど、手塚漫画に登場する怪生物が、手塚兄弟の遊びの中から生まれたことです。「ヒョウタンツギ」と「ブクツギキュ」は、妹の美奈子さんが発端となったことは有名ですが、『七色いんこ』に登場する「ママー」は、咳止め薬の缶を、自宅の箪笥の中から弟の浩さんが見つけたことがきっかけとのこと。咳止め薬「ママー」は当時の大木合名会社(現・大木製薬)が製造しており、その商標の梟の形にヒントを得て漫画に描き始めました。ここにひとつ目や手足をつけたのはもちろん手塚治虫のアイデア。その戦前のブリキ缶の空容器を入手したので、本イベントで披露いたしました。

6ママー缶
▲手塚キャラ「ママー」のモデルとなった咳止め薬「ママー」のブリキ缶。

前半で池田附属小学校時代について語り、後半は、北野中学時代のエピソードについて語りました。林久男さんと結成した六稜昆虫研究会での活動のこと。戦争の影響によって憧れの学生服と白ゲートルから国民服とスパッツに変わっていったことなど、北野の制服変遷についても語りました。

8北野の制服の変遷1
9北野の制服の変遷2

本書・第3章講演の、北野中学時代の同級生・岡原進さんもお越しくださいました。岡原さんは、手塚治虫とクラスは違うものの美術班で一緒で、恩師・岡島吉郎先生についてのエピソードを語られました。戦後は優しい先生と言われたけれど、在学当時は厳しい先生だったこと。1981年に出版された『画業五十年記念 岡島吉郎画集』も見せてくださいました。奥付を見るとその画集の編纂委員会の中に手塚治虫も名を連ねていました。

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11京都国際マンガミュージアムイベント5

12北野中学在学当時の美術部の日誌から
▲北野中学在学当時の美術班の日誌から。
「昭和十六年入班者名」の中に、「手塚」「岡原」の名前がある。

13岡島吉郎先生

岡原進さんは、1966年に大阪市教育委員会の雑誌『教育大阪』の取材で、虫プロダクションを訪問されています。拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』の表紙は、岡原さんがその時に撮影した若き手塚先生が原稿を描いている写真です。『教育大阪』の取材で手塚先生は、岡原さんにこう語ったそうです。
「僕は耕されていない荒れ地を歩くのが好きなんだ」
動かない漫画をなんとか動かしたい、アニメーションに挑戦したい、という手塚先生の思いを、その時、岡原さんはひしひしと感じたそうです。

14「教育大阪」1966年9月号「わが家の教育アルバム」
▲『教育大阪』1966年9月号より、岡原進さんが取材・執筆した「わが家の教育アルバム」。当時の手塚家の応接間で撮影された親子の写真が掲載されている。

15親友が語る手塚治虫の少年時代 書影(帯アリ)
『親友が語る手塚治虫の少年時代』書影。
岡原進さんが1966年に虫プロダクションを訪問した際に撮影した手塚治虫の写真と、岡原さんのインタビューに応じた手塚のコメント「僕は耕されていない荒れ地を歩くのが好きなんだ」を帯のコピーに使用した。

第4章は、手塚治虫の自伝漫画『紙の砦』についての検証。北野中学同級生・金津博直さんが、大阪石綿への通年動員のことを語った講演会を軸に、『紙の砦』のエピソードはどこまでが実話でどこからフィクションなのか。大阪石綿工業大阪工場は、中津のどこにあったのか。建物の配置図面から手塚の逸話の場所を特定するといった研究成果を発表しました。

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▲2007年4月14日に金津博直さんが登壇した六稜トークリレーのポスター。大阪石綿での通年動員中に、手塚治虫が金津さんに贈った肖像画がデザインされている。

17金津題字三種
▲拙著のために金津さんが書いて下さった題字三種類。金津さんは賞状書士の資格を持っている。

18北野中学4年1組集合写真
▲北野中学4年1組の集合写真。担任の太田秀雄先生の隣にいるのが手塚治虫。最上段右から5番目が金津博直。クラスの4分の3は大阪石綿工場への勤労動員となった。

19大阪石綿工業の尾坂工場の建物図面説明
▲大阪石綿工業大阪工場の建物図面に、手塚の逸話を加えたもの。『紙の砦』に描かれた、便所に漫画を貼り出したエピソードは実話である。

20大阪石綿工業大阪工場の場所を示す地図1
▲『昭和前期日本商工地図集成 第2期』(刊行1987・柏書房)より。昭和3(1928) 年から昭和11(1936)年にかけて作成された大縮尺地図。中津浜通三丁目に「大阪石綿工業会社大阪工場」の記載がある。

21「浅野スレート(株)大阪工場」を示す地図1
▲大阪市精密住宅地図 吉田地図1970 大淀区
「浅野スレート(株)大阪工場」として操業していた時期のもの。

22谷さん、岡原さんと記念撮影
▲講演終了後、田浦紀子、高坂史章、谷卓司さん、岡原進さんとで記念撮影。

本書は、我々姉弟が二人三脚で作ったというよりも、各々の得意分野を合わせた作品といえます。今回、パートナーを組んだデザイナーで六稜同窓会委員長の谷卓司さんも撮影係を兼ねて来てくださいました。谷さんは、六稜トークリレーの講演DVDの貸し出し、本書の装幀・デザインにとどまらず、池田附属小学校の同級生・石原実さんへの取材、六稜同窓会への働きかけ等、仕事以上の仕事をして下さいました。本書を出版するにあたって、版元探しをしていた折、和泉書院を紹介して下さったのも谷さんでした。

「後世に残る記録」を作るという目的を果たすための手段として、書籍の出版を選びました。本書が「手塚治虫の少年時代」を知るための一次資料となることを、願ってやみません。