2019.01.01
あけましておめでとうございます。
2018.02.15
下崎闊さん講演「昭和を生きた手塚治虫~東久留米の思い出~」

2月10日(土)、東久留米市役所の市民プラザホールで、下崎闊さんの講演「昭和を生きた手塚治虫~東久留米の思い出~」が開催されました。下崎さんは、1965(昭和40)年、虫プロダクションに入社し、「ワンダースリー」の制作進行に携わったのち手塚先生の秘書となります。その後「リボンの騎士」「千夜一夜物語」「どろろ」等を制作。1968(昭和43)年に設立された手塚プロダクションの制作プロデューサーとして「ふしぎなメルモ」「海のトリトン」等の制作に携わられました。


冒頭で、虫プロダクション代表取締役社長・伊藤叡さんが今年1月25日に、亡くなられたこと。生前、「ワンダー君の初夢宇宙旅行」で初めて編集を任された思い出を語り合ったことなどを話されました。そして、手塚プロダクション資料室長・森晴路さんが2016年4月に亡くなられ「判らないことは、森さんに聞け」が出来なくなったこと。相次ぐ手塚関係者の他界に危機感を感じる中で、拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』の出版に至ったことなどを話されました。そして、自分も手塚先生のことを語っておかなければならないと思ったと下崎さん。この度、手塚先生の終の棲家となった東久留米で、命日「治虫忌」を機に下崎さんの話を聞く会が催された次第です。



下崎さんは、1965(昭和40)年、新聞広告をきっかけに虫プロダクションの入社試験に合格し、「W3(ワンダースリー)」班に配属され、進行の仕事を任されました。「ワンダースリー」の放送が終った翌年6月、「漫画映画の現場をわかる人間を一人つける」と言う事で、社長室勤務の辞令が下りました。入社前は「手塚治虫」の名前も知らなかったのに、社長室に入って手塚先生の仕事ぶりを間近で見るようになり、世間で「天才」とか「神様」と言われる意味がようやくわかってきたと言います。半月もしないうちに、下崎さんはすっかり「手塚治虫の崇拝者」となったと語られました。

しかし1973(昭和48)年、虫プロ商事と虫プロダクションの二社が相次いで倒産。手の平を返すように人が去ったり、混乱の中で信頼していたスタッフにアニメ化の権利を取られたりして、落ち込む手塚先生の姿を間近で見たと言います。

1983(昭和58)年1月15日、東久留米市の成人式で、手塚先生の講演会が行われました。最大の理解者であった母・文子さんを1月4日に亡くしたばかりだった手塚先生ですが、講演にはきちんと出席され、新成人を前にアトムやブラック・ジャック、当時連載中だった『陽だまりの樹』の伊武谷万二郎のイラストなどを次々に描かれました。



この時に手塚先生が語った言葉が「人を信じよ、しかし人は信じるな」。大きく板書した後、続けて先生はこう語ったそうです。「四方八方敵だらけの厳しい社会の荒波を乗り越えていくには、「人を信じるな」という戒めを忘れてはならないでしょう。そして、私が戦争中にいつか平和な世界が来ることを信じていたように、より良い世界の夢を描くことはとりもなおさず「人を信じ」なければできないことです。相反する二つの言葉ですが、個人の生活においては用心をしながら自ら望む道を突っ走るよう心がけねばならないと同時に、人間すべてを信じ互いに励ましあった、よりよい社会の実現のための核をつくっていただきたいと思います。」

「人を信じよ、しかし人は信じるな」。これから希望を胸に社会人として生きていく新成人を前に語った言葉としては意外なものではないでしょうか。しかし、虫プロから手塚プロに移行する動乱期を共にした下崎さんにとっては、この言葉こそ手塚先生の「座右の銘」だと思ったそうです。

下崎さん所蔵の手塚先生ゆかりの資料も展示されていました。

虫プロ商事発行の『COM』で「火の鳥」黎明編と復活編の担当編集者だった野口勲さんと話す下崎さん。

サイゼリアでの打ち上げ会で虫プロ時代の旧交を温める下崎さんと野口さん。この時聞いたオフレコ話は壮絶で濃かった!

手塚ファン8人で、サイゼリアアにて打ち上げ会。
2018.01.01
あけましておめでとうございます。
2017.11.29
11/23お茶べりBOOKサロン@大東市立総合文化センター



11月23日(木・祝)、大東市立総合文化センター2階こみってぃさろんで開催の「お茶べりBOOKサロン 手塚治虫の世界」の講師としてお招きいただきました。第6弾にして初の講師あり企画だそうで、「月刊島民」の手塚治虫特集で私のことを知ったそうです。あの特集記事から3年も経つのですが、今も着目して次のチャンスになるのは本当にありがたいことです。
『親友が語る手塚治虫の少年時代』刊行以来イベントも、京都国際マンガミュージアム、北野高校、トキワ荘塾に続いて4本目になりました。本の出版により社会性を得たことで、事務局が、博物館、学校法人、NPO、行政、と法人主催が続いています。
ある意味「手塚治虫が仕事」になりつつあり、一定の評価が着実についていっていることは本当にありがたいことです。

今回は「公民館×図書館つながりプロジェクト」ということで、大東市立図書館でもこのように、手塚治虫の本と共に本イベントチラシを置いて下さったそうです。来年1月28日にサーティホールでわらび座ミュージカル「ブッダ」の公演があり、そのプレイベントとして手塚治虫の漫画に親しもうという趣旨でした。



1時間私の講演の後、各自で持ち寄った手塚漫画をもとに自由に談義するというもので、終始和やかな雰囲気でした。意外に皆さん熱心に手塚漫画を読んでいるなという印象。とりわけ私が印象に残ったのは、手塚治虫の生死感が顕著に表れた「ジャングル大帝」と、クラスで孤立する高校生の男の子がポスターの女の子に恋をする青春ものの短編「るんは風の中」。手塚漫画は本当に幅広くて奥が深いなと改めて思いました。
今回も、大変貴重な機会を頂戴し、ありがとうございました!



手塚治虫ゆかりのお菓子・千成一茶の銘菓プラネタリュームをお茶菓子として配りました。



文庫版の『ジャングル大帝』と1997年版「ジャングル大帝」の映画パンフレットについていたシングルCD。冨田勲さん作曲のOPテーマのピアノ演奏版で、手塚治虫記念でも常時流されています。本会のBGMとして流しました。
エピソードというと、冨田勲さんはレオの雄叫びを表現するため、一オクターブ上がるメロディーを考え、手塚治虫さんは子供向けのアニメソングとしては難しいのではないのか、と言ったものの、結果的には冨田勲さんがご自身の意見を通し、現在まで「ジャングル大帝」のテーマ曲として親しまれています。


2017.11.10
第9回トキワ荘塾 対談「手塚治虫の少年時代」




11月4日(土曜日)トキワ荘跡地の日本加除出版ホールで「第9回トキワ荘塾 対談『手塚治虫の少年時代』」を開催しました。8月にトキワ荘NPO事務局の小出幹雄さんに、持田恵三さんを通じてイベントの打診をして9月にトキワ荘フォーラム、そして手塚先生の誕生日(11月3日)の直近日での日程開催がとんとん拍子に話が決まりました。私がムーブメントとなって、小出さん、伴さん、黒川さんという長針、短針、秒針を動かし、参加者が時計板となって「トキワ荘塾」というひとつの時計を作り上げたような一体感…これは小出さんのご本業が時計店だから例えるわけですが、偶然の出会いが必然の出会いになっていく充実感と確実な手ごたえを感じるイベントでした。何よりそこに手塚プロダクション出版局局長の古徳稔さんがお越し下さって話に参加して下さったのが嬉しかったですね。私が目指す「手塚プロと手塚ファンを繋ぐ架け橋」の実現に一歩近づけた気がします。

第1部は、元手塚先生のアシスタントの伴俊男さんとの対談。手塚プロダクション資料室長の森晴路さんの急逝がきっかけで『親友が語る手塚治虫の少年時代』の出版を決意したこと。『手塚治虫物語』の著者である伴さんは、まさに「手塚治虫の職人」だと思っている話などを冒頭でし、続いて伴さんのお話。1989年2月に手塚先生が急逝し、その後「アサヒグラフ」の企画で手塚治虫の伝記漫画という話が出た際、「結局、描くのはお前だ」と言われ連載することになったとのこと。池田附属小学校、北野高校を取材するにしても当時は同級生の名簿すらなかった。しかし、「手塚プロ」という名前で取材できたことで、大変好意的に取材に応じてもらったこと。森晴路さん、チーフアシスタントの福元一義さん、大阪関連では中野晴行さんに、取材でとても助けてもらったこと。連載が終わって、本の副題で悩み「揺籃」「爛漫」というタイトルを考えたが、結局採用に至らなかった。また、本の評価は、結局キャラクターが洗練されてないこと、「資料にしかならない漫画だ」と言われたことなど、淡々と飾らない言葉で当時のエピソードを語られました。







▼休憩中、拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』と『われら六稜人2001』(手塚治虫の講演収録)の販売。

▼対談用に用意した関連書籍

▼元NHKアナウンサーの小野卓司さんと。

▼下崎闊さん、小出幹雄さんと。

第2部は「紙の砦」担当編集者の黒川拓二さんとの対談。少年画報社で「ノーマン」「鬼丸大将」と1968年から1969年の二年間「手塚番」を務め、当時、富士見台にあった手塚プロに毎日通い詰めたこと。「立って眠ることを覚えた」ほどハードな“手塚時間”を経験し鍛えられた日々だった話をされました。面白かった珍エピソードは、手塚先生が24時間体制で仕事をして不夜城となった影響で、隣の養鶏場でニワトリが卵を産まなくなり、結局クレームで当時の石田ビルを出ていかざるを得ず、近所の越後屋ビル(現・ビーフギャラリーエチゴヤ)に移ったこと。二年間の「手塚番」の後はしばらく平田弘史さんを担当することになり、手塚番を離れ1974年の夏の読み切り企画で再び手塚先生を担当することに。「タイトル『紙の砦』はどう?」と言われ、まるで映画のスクリーンに文字がバンと浮かび上がったようで「うわーっ!決まった!」と喜んで会社に飛んで帰った。それから二週間毎日手塚プロに通い詰めたこと。「毎日が修羅場の連続で…激しい季節でした。当時を思い出すたび、心が熱くなります。あの夏の日々が懐かしい…。」と当時を振り返られました。黒川さんのインタビューが掲載された『神様の伴走者 手塚番13+2』の話になり、『ビッグコミック』の担当編集者・志波秀宇さんとの親交についても話されました。最後に黒川さんはこう言われました。「手塚先生とひとつの時代を共有できたのは僕の財産でした。僕の中で手塚先生はずっと生きています。とてもハードだったので、もう手塚番は嫌だって編集者もいますが、僕はずっと先生の編集者でありたいと思います。」



質疑応答タイムで真っ先に手を挙げたのは古徳さん。「『鬼丸大将』は最初原作付きだったという話だったようですか?」と質問。「うちの編集長がある作家に依頼されたものの、結局手塚先生は使わなかった。アニメと並行だったから、過密スケジュールすぎて、満足のいく作品にはならなかった。」

田中昭さん「なぜ手塚先生はこれほどの過密スケジュールで仕事をされたのか?」
「手塚先生の1時間は普通の人の2時間3時間分に値する濃い仕事量だった。その“手塚時間”によって鍛えられた。」と黒川さん。
「漫画を広めるために、アニメを広げるために、その一心だったと思います」と伴さん。

最後に佃賢一くんが挙手し『ブラック・ジャック創作秘話』の最終話についての質問。「手塚先生は、病院で何故あれほど伴さんに怒ったのか?」「解りませんね…。でも、早く独り立ちして出ていけという先生の愛情だったのでは」と伴さん。
『ブラック・ジャック創作秘話』の最終話が伴俊男さんだったのを見て「わが意を得たり」と思ったのは私だけではないと思ったのですが、皆さまいかがでしょうか?
と私の言葉に大きな拍手をいただきました。という、良いまとめ方で本会終了!



交流会、そしてトキワ荘漫画家のたまり場だった「松葉」での二次会。何の変哲もないラーメンがひときわ美味しく感じられたのたのは言うまでもありません。
黒川さんが「田浦さんの熱意に敬意を表するよ!」と何度も何度も熱く語って、別れ際にはすっかり酔ってハイタッチを繰り返して熱い思いを共有した一日でした。


2017.11.08
美内すずえ先生のカフェレストラン「カフェ デゥ クレプスキュール 吉祥寺店」へ。

「キチムシ」の後、持田恵三さんの案内で、漫画家・美内すずえ先生の自宅兼アトリエ兼カフェレストランの「カフェ デゥ クレプスキュール 吉祥寺店」へ。
大学生の頃から「ガラスの仮面」の大ファンで『花とゆめ』の連載も単行本も全部おっかけているファンだけど、いまだに全く完結する気配がなーい!ので読者としてのテンションを保つのが難しいけど、とりあえず来月の「狼少女ジェーン」の演劇もめっちゃ楽しみ!
店内に、美内すずえ先生の「ガラスの仮面」の色紙と「アマテラス」のCD。梟をモチーフにした装飾の店内。そして、お料理とケーキもとても美味しかったです!















2017.11.08
手塚治虫文化祭 ~キチムシ'17~

11月3日、手塚先生の誕生日に吉祥寺で開催の「手塚治虫文化祭 ~キチムシ'17~」に行ってきました。
手塚るみ子さんにご挨拶し、ご著書にサインいただきました!
桐木憲一さん画の「紙の砦」画ポストカードとステッカー、「ブルンガ一世」のフィギュア、「手塚治虫のエロティカ」のノートを購入。
手塚るみ子さんから「明日のイベント頑張ってくださいね」と温かい激励のお言葉をいただきました。
翌日の「トキワ荘塾 対談『手塚治虫の少年時代』」のレポートは後程。











2017.10.28
「ザ・淀川」2017年11月号

「ザ・淀川」2017年11月号に、10月7日の六稜トークリレーの記事を掲載いただきました。告知記事と講演後の記事の両方を連続で月刊誌に載せていただくのは初めてです。編集長の乃美夏絵さんからとても嬉しいメッセージをいただきました。
「六稜トーク、本当にお疲れさまでございました。本当に内容が充実した有意義な講演会でした。幅広い年代の聴客を惹きつけるのは至難の技だと思います。改めて、これまで田浦さんがされてきた、研究成果の凄さを感じていました。
いっそう“田浦ファン度”が増しました。
『紙の砦』、最後まで、胸に響くものがありました。この胸に残ったものを大事にしたいと思いました。ありがとうございました。」
なんだか『ガラスの仮面』でいう紫のバラをいただいたような心境。「あなたのファンです」という言葉を励みにこれからも頑張ろうと思います。
誰でも気軽に学べる「六稜トーク」
10月7日、北野高校・六稜会館で「六稜トークリレー」が開かれました。毎月原則第1土曜日に開催されるこの催しは、北野高校の卒業生を講師に迎える生涯学習系プログラム。多様なテーマで企画され、豊富な話題に、常連になる方も。「学校の中なので入りにくいと思われるかもしれませんが、気軽に足を運んでもらえたら」と世話人の谷卓司さん。
この日の講師は田浦紀子さん。「卒業生でない講師」は2例目だとか。田浦さんは「旧制北野中学校(現北野高校)を卒業した漫画家・手塚治虫さん」 の大ファンで、研究成果が新聞や雑誌等でも取り上げられているほど。今春出版された本『親友が語る手塚治虫の少年時代』をもとに、手塚治虫さんのルーツにふれながら、北野中学校時代の体験が基となっている『ゴッドファーザーの息子』や、自伝的漫画として有名な『紙の砦』といった、淀川区にいて身近に感じる作品の数々を解説してくれました。
また、田浦さんは北野中学校時代だけでなく、阪神間に多くある「手塚治虫ゆかりの地」を訪ね、調べることをライフワークとしており、後半は、主に中之島を中心に、手塚治虫さんが子どもの頃に電気科学館のプラネタリウムに衝撃を受け、通いつめた体験が後のSF作品に強く影響していることや、曾祖父・手塚良庵が入門した適塾が描かれている『陽だまりの樹』、大阪大学付属医学専門部時代に通った阪大病院が描かれた『アドルフに告ぐ』などの作品を挙げながら、取材で得た実際のエピソードを交えて紹介してくれました。
「これらのゆかりの地を巡ることができる“虫マップ”を20年前から作り、今はスマホがあれば追体験できるように改良しています。中津・十三・梅田・中之島…他のエリアも充実させていきたい」と田浦さん。

同級生の金津博直さんも登壇。勤労動員時代、手塚治虫さんが倉庫に隠れて描いてくれたという金津さんの絵を披露しながら当時の過酷な様子を語ってくれました。

この日は、手塚治虫さんの直筆イラストや学生時代の部誌『昆蟲の世界』などを展示する地下ギャラリーが特別公開された。
2017.10.27
「あたたかい心は幸せのために」アップリカ創業者・葛西健蔵氏の言葉

アップリカ創業者の葛西健蔵氏のご葬儀で配布された会葬御礼に挟まれていた氏のメッセージ。大変感銘を受けたのでご紹介したいと思います。
ご存じの方も多いと思いますが、葛西健蔵氏は、手塚プロダクションの相談役でした。虫プロ倒産時に債務整理にあたり、手塚先生の窮地を救った人物として知られています。
上に立つ人はこうでなければ、と思うと同時に自分にとってもこれからの「人生の教訓」としていつまでも心にとどめたい言葉だと思いました。
“あたたかい心は幸せのために”
人間の生涯の幸せの意味は、
あたたかい心を持ち周囲の人を大切にし
自らの分野を通じて人のためにつくし、
一滴の水、一つのものを大切にすることだと私たちは考えています。
学歴・能力に優れていること、
お金・権力・名誉を多く持っていることは、
幸せのほんの一部にすぎず、
自分のためのみのものであれば、
かえって不幸を招くこともあります。
幸せはあたたかい心を持ち、
周囲の人に大切にし
自らの分野を通じて人のためにつくし、
一つのものを大切にする心を持ち続ければ、
誰もがかなえられることです。
アップリカ創業者
アップリカ育児研究所 理事長
葛西健蔵
2017.10.25
アップリカ創業者・葛西健蔵氏のご葬儀に参列

アップリカ創業者・葛西健蔵氏の訃報が各誌報道で伝えられた。享年91歳。1973年の虫プロ商事、虫プロダクション倒産時に、手塚先生を債権者達から守り、漫画を描くことに専念させ「版権を借金のカタにしてはいけない」と自らも債権者でありながら、キャラクターの版権を一時的に引き受け、債権者から版権が濫用されることを防いだ「手塚治虫の恩人」と知られている。のちに、1979年から1980年に連載された『どついたれ』に描かれた葛城健二のモデルとなった。
その葛西健蔵氏の最後の姿を映したのが2016年2月に放送されたNHKの「ファミリーヒストリー」だった。既に話すことができなくなっていた葛西氏はディレクターの質問に筆談で応じた。
「手塚治虫はどんな人物だったか?」
「いだいなきじん」
「父親としてはどんな人だったか?」
「りっぱな人。あれだけ忙しいのにたまに食事していた。」
「子供と一緒にいたいと思われたということでしょうか?」


10月24日、大阪市住吉区のアップリケアで、葛西健蔵氏のご葬儀が営まれた。訃報を知ったのが23日の午後7時をまわっていたのでさすがに諦め、ご葬儀だけでもと思い参列した。さすがに立派な式で見た目ざっと300人くらいの弔問客がいただろうか。祭壇には「どついたれ」の絵が大きく飾られていた。読経の後、東京都知事、大阪市長、兵庫県知事などたくさんの弔電が読み上げられ、最後にNHK「ファミリーヒストリー」ディレクター・矢野哲治さんの弔電が読まれた。
「いつまでも教えを請いたい。手塚がそういった人。葛西健蔵さんありがとうございました。」
続いて、葬儀委員長である手塚プロダクション代表取締役社長・松谷孝征さんの弔辞。

「季節は秋になり富士山が初冠雪を迎えました。東京から向かう最中富士山を見たのですが、曇っていて雪が見えず残念でした。手塚治虫は早く亡くなりましたが、かくいう私も73歳と年寄りの部類に入ってきました。葛西理事長とお会いしたのは昭和48年ですから、45年近く前になります。先ほどNHKの方の話がありましたが、手塚治虫がどん底になった時期、三つ会社があるうちに二つが潰れ、債権者会議まで遠方から来てくださり、すごい人だなと思いました。葛西理事長の活動の中で「あたたかい心を育てる」運動というのがあり、「三歳までの子供が一番大切なんだ」と語っておられます。理事長もひ孫さんまでおられ、読経の最中でも大騒ぎ、理事長の血をひいてますよ。それから、人間のおしまいが大切なんだということで、アップリケアをおつくりになって、でもこれは自分のためにおつくりになったようですね。ものすごい生命力で「生に対する執着」を感じました。「米寿の会」では全然お元気でいらっしゃいましたが、奥様が先に亡くなられましたね。91歳で亡くなられてしまいましたが、我々に残した言葉や想いを引き継いでいかなければと思います。手塚治虫の『どついたれ』が完成しなくて残念だったのですが、葛西理事長の想いを引き継いでしっかりやっていきますので、どうぞゆっくりお休みになってください。手塚治虫と会ってお話ししてやってくだい。どうもありがとうございました。」
お焼香をして、献花して出棺までお見送り。
大正生まれの「手塚治虫の恩人」の死を見送って感じたことは「また、これで手塚治虫がひとつ歴史になった」ということだった。
私の「記憶を記録にとどめる」活動はほとんど時間との闘いだと感じる。
そして「できること」よりも「できないこと」のことのほうが圧倒的に多く、いくら掴んでも掴んでも指の間からこぼれ落ちていく砂のようなものだ。
せめてその時間に立ち会うことは、何かを変える一助となるのだろうか。



