中之島手書きゆかりの地マップ
NHK大阪放送局制作の、中之島界隈の手塚治虫ゆかりの地特集番組の制作に協力しました。
番組は、7月29日(土曜日)朝7時半~8時NHK総合の「ウィークエンド関西 西日本の旅」です。
http://www4.nhk.or.jp/P2850/
関西ローカルの番組ですが、放送後に一週間ほどHPにて動画が公開されるようです。

先日『陽だまりの樹』の舞台の適塾、カールツァイスⅡ型プラネタリウムが展示保存されている、大阪市立科学館、大阪大学跡地でロケを行いました。
写真は、スケッチブックに中之島界隈の地図を描いてみました。色鉛筆で描き、そこにゆかりの地をふき出しでプロット。

ロケ撮影中

ロケ終了後記念撮影
ロケ後にNHKの撮影クルーの方と一緒に記念撮影。右からディレクターの新井直之さん、アナウンサーの松苗竜太郎さん、カメラマンと撮影スタッフの方。

大阪市立科学館

科学館所蔵の手塚治虫色紙
科学館での打ち合わせの際、『漫画天文学』の絵の上に描かれた手塚先生のサインを出していただきました。
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月刊島民201706 紹介記事1

今月の「月刊島民」(京阪電鉄のフリーペーパー)で拙著をご紹介いただきました。
執筆した江口由夏さんは、2014年7月号の特集「手塚治虫が歩いた道。」で組んでいた編集者です。
手塚プロの森晴路さんの急逝がきっかけて「手塚治虫が歴史になってしまう」という危機感を感じ、出版を決意したきっかけ。「漫画家になる前の手塚との思い出を飾らない言葉で語っている」「こいうった本が、手塚治虫を現代に生かし続けているのは間違いない。」等々、私のこの本に対する「思い」の部分をきちんとまとめてくださいました。本当にありがとうございました!

月刊島民/ナカノシマ大学の公式サイト
※7月1日頃、6月号のバックナンバーのPDF版が掲載されます。
3京都国際マンガミュージアムイベント2
このたび、和泉書院より『親友が語る手塚治虫の少年時代』を上梓いたしました。本書は、2003年~2007年に開催した、手塚先生の弟妹さんや同級生の方たちの講演録です。手塚プロの小林準治さんにもコラムを寄稿いただき、元アシスタントの伴俊男さんのインタビューを加えて構成した本です。手塚先生の同級生の方たちも米寿を超え、本当にギリギリのタイミング。20年前に「虫マップ」を初めて発表した頃から、一緒に研究活動を行っている私の弟の高坂史章と共編著での出版です。

1京都国際マンガミュージアム外観

その拙著の刊行記念イベント「思い出のなかの手塚少年をたずねて ―『親友が語る手塚治虫の少年時代』著者トークショー」を、6月11日(日曜日)、京都国際マンガミュージアムで開催していただきました。昨年4月に手塚プロの森晴路さんが急逝したことがきっかけで出版を決意したこと、同級生の方たちへの取材の裏話、手塚治虫の自伝漫画『紙の砦』の舞台となった大阪石綿のことなどを語り、濃密な2時間となりました。

2京都国際マンガミュージアムイベント1

4京都国際マンガミュージアムイベント3
▲京都国際マンガミュージアム・雑賀忠宏さんが司会進行。

5京都国際マンガミュージアムイベント4

本書の中で特筆すべきは、ヒョウタンツギ、スパイダー、ママー、ブクツギキュなど、手塚漫画に登場する怪生物が、手塚兄弟の遊びの中から生まれたことです。「ヒョウタンツギ」と「ブクツギキュ」は、妹の美奈子さんが発端となったことは有名ですが、『七色いんこ』に登場する「ママー」は、咳止め薬の缶を、自宅の箪笥の中から弟の浩さんが見つけたことがきっかけとのこと。咳止め薬「ママー」は当時の大木合名会社(現・大木製薬)が製造しており、その商標の梟の形にヒントを得て漫画に描き始めました。ここにひとつ目や手足をつけたのはもちろん手塚治虫のアイデア。その戦前のブリキ缶の空容器を入手したので、本イベントで披露いたしました。

6ママー缶
▲手塚キャラ「ママー」のモデルとなった咳止め薬「ママー」のブリキ缶。

前半で池田附属小学校時代について語り、後半は、北野中学時代のエピソードについて語りました。林久男さんと結成した六稜昆虫研究会での活動のこと。戦争の影響によって憧れの学生服と白ゲートルから国民服とスパッツに変わっていったことなど、北野の制服変遷についても語りました。

8北野の制服の変遷1
9北野の制服の変遷2

本書・第3章講演の、北野中学時代の同級生・岡原進さんもお越しくださいました。岡原さんは、手塚治虫とクラスは違うものの美術班で一緒で、恩師・岡島吉郎先生についてのエピソードを語られました。戦後は優しい先生と言われたけれど、在学当時は厳しい先生だったこと。1981年に出版された『画業五十年記念 岡島吉郎画集』も見せてくださいました。奥付を見るとその画集の編纂委員会の中に手塚治虫も名を連ねていました。

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11京都国際マンガミュージアムイベント5

12北野中学在学当時の美術部の日誌から
▲北野中学在学当時の美術班の日誌から。
「昭和十六年入班者名」の中に、「手塚」「岡原」の名前がある。

13岡島吉郎先生

岡原進さんは、1966年に大阪市教育委員会の雑誌『教育大阪』の取材で、虫プロダクションを訪問されています。拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』の表紙は、岡原さんがその時に撮影した若き手塚先生が原稿を描いている写真です。『教育大阪』の取材で手塚先生は、岡原さんにこう語ったそうです。
「僕は耕されていない荒れ地を歩くのが好きなんだ」
動かない漫画をなんとか動かしたい、アニメーションに挑戦したい、という手塚先生の思いを、その時、岡原さんはひしひしと感じたそうです。

14「教育大阪」1966年9月号「わが家の教育アルバム」
▲『教育大阪』1966年9月号より、岡原進さんが取材・執筆した「わが家の教育アルバム」。当時の手塚家の応接間で撮影された親子の写真が掲載されている。

15親友が語る手塚治虫の少年時代 書影(帯アリ)
『親友が語る手塚治虫の少年時代』書影。
岡原進さんが1966年に虫プロダクションを訪問した際に撮影した手塚治虫の写真と、岡原さんのインタビューに応じた手塚のコメント「僕は耕されていない荒れ地を歩くのが好きなんだ」を帯のコピーに使用した。

第4章は、手塚治虫の自伝漫画『紙の砦』についての検証。北野中学同級生・金津博直さんが、大阪石綿への通年動員のことを語った講演会を軸に、『紙の砦』のエピソードはどこまでが実話でどこからフィクションなのか。大阪石綿工業大阪工場は、中津のどこにあったのか。建物の配置図面から手塚の逸話の場所を特定するといった研究成果を発表しました。

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▲2007年4月14日に金津博直さんが登壇した六稜トークリレーのポスター。大阪石綿での通年動員中に、手塚治虫が金津さんに贈った肖像画がデザインされている。

17金津題字三種
▲拙著のために金津さんが書いて下さった題字三種類。金津さんは賞状書士の資格を持っている。

18北野中学4年1組集合写真
▲北野中学4年1組の集合写真。担任の太田秀雄先生の隣にいるのが手塚治虫。最上段右から5番目が金津博直。クラスの4分の3は大阪石綿工場への勤労動員となった。

19大阪石綿工業の尾坂工場の建物図面説明
▲大阪石綿工業大阪工場の建物図面に、手塚の逸話を加えたもの。『紙の砦』に描かれた、便所に漫画を貼り出したエピソードは実話である。

20大阪石綿工業大阪工場の場所を示す地図1
▲『昭和前期日本商工地図集成 第2期』(刊行1987・柏書房)より。昭和3(1928) 年から昭和11(1936)年にかけて作成された大縮尺地図。中津浜通三丁目に「大阪石綿工業会社大阪工場」の記載がある。

21「浅野スレート(株)大阪工場」を示す地図1
▲大阪市精密住宅地図 吉田地図1970 大淀区
「浅野スレート(株)大阪工場」として操業していた時期のもの。

22谷さん、岡原さんと記念撮影
▲講演終了後、田浦紀子、高坂史章、谷卓司さん、岡原進さんとで記念撮影。

本書は、我々姉弟が二人三脚で作ったというよりも、各々の得意分野を合わせた作品といえます。今回、パートナーを組んだデザイナーで六稜同窓会委員長の谷卓司さんも撮影係を兼ねて来てくださいました。谷さんは、六稜トークリレーの講演DVDの貸し出し、本書の装幀・デザインにとどまらず、池田附属小学校の同級生・石原実さんへの取材、六稜同窓会への働きかけ等、仕事以上の仕事をして下さいました。本書を出版するにあたって、版元探しをしていた折、和泉書院を紹介して下さったのも谷さんでした。

「後世に残る記録」を作るという目的を果たすための手段として、書籍の出版を選びました。本書が「手塚治虫の少年時代」を知るための一次資料となることを、願ってやみません。
6月11日(日曜日)に京都国際マンガミュージアムにて、『親友が語る手塚治虫の少年時代』の刊行記念イベントを行います。
お時間があれば是非お越しいただけると嬉しいです。

親友が語る手塚治虫の少年時代 書影(帯アリ)小

京都国際マンガミュージアムのイベント紹介ページ
和泉書院のイベント紹介ページ

思い出のなかの手塚少年をたずねて ―『親友が語る手塚治虫の少年時代』著者トークショー

日時:平成29年6月11日(日)午後2時~午後4時

会場:京都国際マンガミュージアム 2階 ギャラリー6
(京都市中京区烏丸通御池上る 京都市営地下鉄 烏丸線・東西線 烏丸御池駅2番出口すぐ)

内容:『親友が語る手塚治虫の少年時代』(和泉書院刊,2017年)は、手塚治虫の親族や同級生を訪ね歩き、その思い出の中にある少年・手塚治虫についての証言を集めた本です。本イベントでは本書の著者である田浦紀子氏・髙坂史章氏の両名を迎えて、執筆の中で出会った少年・手塚の仲間たちと、彼らの語った手塚治虫についてお話を伺います。

出演者(敬称略)
田浦紀子(『親友が語る手塚治虫の少年時代』共著者・サイト「虫マップ―手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―」管理人)
髙坂史章(『親友が語る手塚治虫の少年時代』共著者・サイト「虫マップ―手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―」管理人)
司会:雑賀忠宏(京都精華大学国際マンガ研究センター研究員・日本マンガ学会関西交流部会代表)

料金:無料(ただし,マンガミュージアム入場料[大人800円,中高生300円,小学生100円]は別途必要)

定員:30名(先着順)

参加方法:事前申込不要

主催:京都国際マンガミュージアム/京都精華大学国際マンガ研究センター/日本マンガ学会関西交流部会

協力:和泉書院

問合せ先:京都国際マンガミュージアム
TEL:075-254-7414 FAX:075-254-7424

【田浦紀子(たうら・のりこ)プロフィール】
1978年大阪市生まれ。京都精華大学卒業。在学時代に、弟の髙坂史章と共に阪神間の手塚治虫ゆかりの地を記した研究誌『虫マップ』を発表。改訂を重ねながら様々な媒体で発信し続け現在に至る。近年は大阪を中心に、手塚治虫ゆかりの地をめぐるイベントを主宰。

【髙坂史章(こうさか・ふみあき)プロフィール】
1980年大阪市生まれ。大阪大学卒業。姉・紀子と共に『虫マップ』を発表。鉄道・歴史・近代建築・ミリタリーと趣味は多岐にわたり、アニメの「聖地巡礼」もその一つ。『親友が語る手塚治虫の少年時代』では、特に手塚治虫の戦争体験に関わる箇所を監修。
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このたび、和泉書院より『親友が語る手塚治虫の少年時代』を上梓いたしました。「虫マップ」の活動から20年。私たち姉弟(田浦紀子・高坂史章)にとって、念願の初の自著を刊行することができ、感慨ひとしおです。編集校正はもとより、紙の選定まで自分達が関わった本だけに、完成した本を手にした喜びは何ものにもかえがたいです。そして本の装幀を手掛けたデザイナーの谷卓司さんには、この企画がスタートした時から、苦楽を共にしていただきました。本当に、仕事以上の仕事をしていただき、感謝してもしきれません。

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さて、まずは関係者への発送作業。このあと、既にご予約いただいている方への発送いたしました。

ママーサイン1

サインは、手塚先生の弟の手塚浩さんが発案の「ママー」を描きました。あと「虫マップ」の最初期の頃に使用していた「ヒョウタンツギ」と「スパイダー」の落款(弟・史章の手彫り判子)を押しました。個人的にサイン入りで予約いただいた方には、このような形で発送いたします。

田浦、高坂のサイン入り本を希望の方は
・お名前
・ご住所
・お電話番号
・申し込み冊数
・著者サイン希望
を書き込んで
mushimap★gmail.com
までメールでお申し込みください。(★を@に変換)

なお、書店での発売は5月12日。
以下の書店への配本が決定しています。

【大阪】
MARUZEN&ジュンク堂書店 梅田店 (手塚治虫書店)
ジュンク堂 大阪本店
ジュンク堂 天満橋店
ジュンク堂 難波店
梅田 蔦屋書店
【東京】
丸善 丸の内本店 (手塚治虫書店)
丸善 お茶の水店
ブックファースト渋谷文化村通り店
ブックファースト新宿店
書泉グランデ(神保町)
アトレ秋葉原1
ジュンク堂 池袋本店
三省堂 池袋本店
東京大学生協
オリオン書房 ルミネ立川店
丸善 丸の内本店
丸善 多摩センター店
ジュンク堂 大泉学園店
【名古屋】
ジュンク堂書店 名古屋栄店
「鉄腕アトム」の誕生日に因んだイベントが、長野県上田市で4月8日に開催されました。『火の鳥 乱世編』に登場する手塚太郎金刺光盛(手塚治虫の先祖)と上田との関わりを研究されている上原榮治さんからお誘いを受け、私たち夫婦は上田市を再訪。翌4月9日、上原さんに上田市の手塚地区界隈をご案内いただきました。
前回、須川の手塚家の墓所へ行った際のレポートはこちら。
手塚の里・上田へ―手塚治虫のルーツを訪ねて―

手塚太郎金刺光盛 上原さんの本
上原榮治さんの著書『手塚太郎金刺光盛―手塚一族の後裔はどこへ?―』

そもそものきっかけは、2016年2月12日放送のNHK「ファミリーヒストリー」でした。番組によると、長野県上田市には、「手塚」という集落があり、その地名から「手塚氏」と言われるようになったとのこと。1184年の粟津の戦いで木曽義仲敗死後、源頼朝に田畑家屋敷を没収され、手塚光盛の一族は手塚地区から須川地区に落ち延びました。上原さんは母方の実家が須川手塚家にあたります。

上田の地図西側 上原さんの本
上田の地図東側 上原さんの本
上田市~塩田平周辺地図
『手塚太郎金刺光盛―手塚一族の後裔はどこへ?―』より

上田駅で手塚ファンの松原光昭さん待ち合わせ。途中で上原さんと合流し、4人で手塚地区へ。約800年前の手塚家のゆかりの地を訪ねました。

4西塩田・別所温泉案内マップ1
西塩田・別所温泉案内のマップ

5西塩田・別所温泉案内マップ2手塚地区クローズアップ
手塚地区を拡大すると、手塚光盛ゆかりの地が点在しています。

6バス停「手塚」にて田浦誠治
上田バスのバス停「手塚」!

7猿田彦大神
バス停「手塚」の近くにあった「猿田彦大神」の碑。手塚キャラの猿田彦と関連があるのかは不明です(笑)。

8手塚光盛居館跡
手塚太郎金刺光盛の居館跡(推定)
門は江戸時代から代々続く庄屋のもの。

9手塚光盛の居館跡の前で説明する上原さん
手塚光盛の居館跡で金刺手塚家の系図について説明する上原さん。

10金刺手塚家系図
上原さんは2冊目の本を執筆中だそうで、手塚光盛以前の系譜についても教えていただきました。手塚家は代々長男を「太郎」と名付けていたようです。

11手塚光盛居館跡の土塁
草むらの向こうに見える土塁が、手塚光盛の居館があった名残だそうです。

12手塚太郎駒の足形橋1
上田市塩田の里交流館「とっこ館」前にある手塚史跡遺産「手塚の太郎 駒の足形橋」

13手塚太郎駒の足形橋2
木曽義仲の四天王といわれる手塚太郎光盛が、戦の軍神に祈願をこめた時、乗る騎馬の蹄の跡が石橋に残ったという伝承に基づくそうです。

14光盛の五輪塔
手塚太郎光盛を祀る五輪塔

15塩野神社
塩野神社。手塚氏によって創建されたと思われる古社で、境内には流鏑馬の出発点があります。戦国時代には真田昌幸・信之が信仰をよせたそうです。

16八木沢天満宮
八木沢天満宮

17八木沢神社 木曽義仲の古碑・碑文
八木沢天満宮にある木曽義仲の古碑の碑文。手塚氏の子孫・手塚次郎左衛門が江戸時代に建立。

18三つ盛亀甲紋が刻まれた祠
八木沢天満宮・木曽義仲の古碑のひとつに手塚家の家紋「三つ盛亀甲紋」が刻まれた祠。ちなみに、総禅寺の手塚家の墓にも同じ文様が刻まれています。

19祠の裏には手塚光盛と刻まれている
祠の裏には手塚光盛と刻まれています。

20中善寺の住職と上原さん
上原さんに中善寺のご住職を紹介していただきました。

21中善寺
中善寺薬師堂(国指定重要文化財)

22中善寺の釈迦如来像
中善寺薬師堂の中の薬師如来像を特別に拝観させていただきました。

23中善寺の薬師如来像の天板に手塚光盛が描かれている
薬師如来像の台座の天板に描かれた墨絵。流鏑馬に興じる手塚光盛を描いたものと思われます。
2月10日(金)の晩、私は大阪から東京に向かう新幹線の中にいました。その数日前に知った、元「少女クラブ」編集長の丸山昭さんの訃報と併せて、「2月11日の午前に、手塚ファン有志で手塚先生のお墓参りに皆で行く」という情報が、池川佳宏さんのツイッターで流れたからでした。深夜0時に有楽町駅に到着。昨年の手塚治虫文化賞の授賞式が有楽町朝日ホールで開催され、たまたま丸山昭さんとエレベーターで一緒になったのです。「(手塚イベントなので)きっと来られると思っていました」と、一言二言会話し、それが丸山さんとお話した最後となりました。

1新庚申塚駅
翌日の2月11日(土)の午前10時半に、都電荒川線の新庚申塚駅に到着。東京の友人の持田恵三さん(川越ヒョウタンツギの会)と合流。到着すると、なぜか京都の手塚ファンの山本晋吾さんもいてびっくり!私と同じくやはりツイッターで情報を見て来たそうです。
2総禅寺の前で下崎闊さん
巣鴨の総禅寺に到着すると、虫プロ&手塚プロOBの下崎闊さんの姿が。下崎さんは、本当は2月9日の手塚先生のご命日にお墓参りに行く予定が、あいにくのお天気で中止。私たちに予定を合わせてくださいました。

3総禅寺手塚先生のお墓モニュメント
お線香を買って、手塚先生のお墓参りへ。毎年、ご命日あたりは、手塚家の方々だけでなく、手塚ファンもたくさんお参りに来るようです。私はというと、2007年12月の手塚ファン大会の翌日に、小林準治さんの愛車で行って以来なので、実に9年ぶりでした。

5総禅寺の前で田浦紀子
総禅寺の前で筆者

4総禅寺の前で山本晋吾さん持田恵三さん
左:山本晋吾さん、右:持田恵三さん

お墓参りをすませ、先発隊の池川佳宏さん達を追いかけて、都電荒川線で、鬼子母神で下車し、並木ハウスへ向かいました。手塚先生が住んでいた時のままの建物が残っていて、まるで時が止まったようです。

6並木ハウス 手塚先生の部屋
手塚先生が住んでいた210号室は正面左手側のこの窓。


丸山昭さんが、並木ハウスの元手塚先生の部屋の前でインタビューを受けている様子が、NHKのホームページで見られるのでご覧ください。
「手塚先生は富士山のような人」という言葉が印象的です。

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」
第8回 宇宙から生命を見つめて~手塚治虫~
「編集者が語る「異能の人」」丸山昭さん
2014年11月25日


7雑司が谷案内処
8丸山昭さんのサイン
並木ハウスのすぐ近くの、「雑司が谷案内処」では、虫プロOGの岡部江利子さんがいらっしゃって、丸山昭さんのサイン入り著書を見せてくださいました。案内処の2階でようやく先発隊の池川さん達と合流。池川佳宏さんが取材執筆された丸山昭さんのロングインタビューの記事が配布されました。

11鬼子母神参道
9鬼子母神
「雑司が谷案内処」を後にし、参道を歩いて鬼子母神へお参り。

10鬼子母神前で記念撮影1
14鬼子母神前で記念撮影2
鬼子母神参拝の後ツアーの皆で記念撮影。

12トキワ荘お休み処1
13トキワ荘お休み処2
その後、椎名町のトキワ荘お休み処へ向かいました。

15松葉
16松葉ラーメン
お昼ご飯は、トキワ荘メンバーがよく食べに行った「中国料理 松葉」でラーメンを。

17トキワ荘跡モニュメント1
18トキワ荘跡モニュメント2
トキワ荘跡地に立つモニュメント

19記念碑「トキワ荘のヒーローたち」
南長崎花咲公園内にある記念碑「トキワ荘のヒーローたち」

20レオトライヤ東長崎駅
最後は西武池袋線東長崎駅に設置された「ジャングル大帝」のレオとライヤのモニュメントを見て解散。ここのところ、手塚先生の関係者の訃報続き、手塚先生のことを語れる人がどんどん減っていくのですが、でも、だからこそこうして毎年「偲ぶ会」が催されていることは素晴らしいことだと思うのです。
虫プロ見学会&手塚番トークショー&懇親会

8月28日、手塚治虫ファンクラブのイベントとして「虫プロ見学会&手塚番トークショー&懇親会」が開催されました。会長の武田聖二朗さんの呼びかけで、総勢50人参加の夏のイベントとなりました。

1富士見台駅前

午後2時に富士見台駅に集合。虫プロダクションは一度に10人程度しか入れないということで、30分の時間差で4チームに分けての見学。私たち夫婦は3班になり、元・手塚番の橋本一郎さんの案内で、虫プロダクションまで向かいました。

2石田ビル
手塚プロが最初に事務所を借りた石田ビル。「一階が洋服屋さん、二階がオーロラという喫茶店で、打ち合わせはよくここでした」と橋本さん。

3エチゴヤ
4エチゴヤのシャッター 
次に手塚プロの事務所となったのがエチゴヤビルで、1970年~1976年まで、肉屋の二階三階を手塚プロダクションが借用していたそうです。『ブラック・ジャック』はまさにここで生まれたわけです。エチゴヤのシャッターには1973年に展覧会に出展されたキャラクター画が再現されています。
5中華料理純華
中華料理「純華」。『ブラック・ジャック』第39話「純華飯店」モデルの店で、当時、手塚先生やスタッフがよく行ったそうです。小林準治さんは、自分の新人歓迎会をこの「純華」でやってもらったとのこと。

7虫プロ記念撮影  
虫プロダクションに到着し、3班の皆で記念撮影。
8虫プロ玄関
有名な虫のロゴマークに古びたポスト。そして、ガラスブロックに50年前のモダン建築の面影を感じます。

9虫プロ清水さん
ここからは、虫プロダクション版権事業課の芝田達矢さんに社内を案内していただきました。

10虫プロ撮影部屋扉
11虫プロ撮影台1号機
「鉄腕アトム」の影が描かれた扉を開けると、古い撮影台と、壁二面にずらっとフィルムが並んでいました。撮影台はマルチプレーンカメラと呼ばれるもので、この機械は2台目。アニメの奥行きを表現するために、マルチ機能のある撮影台が必要になり導入したとのこと。最初の1台目は手塚先生が個人的に持っていたもので、それをカウントせず、この機械を「1号台」と呼んでいるそうです。虫プロ時代はこのような撮影台が最高で7~8台はあったそうです。

12虫プロビデオ1
13虫プロビデオ2
当時、試写室だった3階の屋根裏部屋や、現在でもアニメ制作が行われている部屋などを案内していただいた後、4班と交代でビデオを視聴。「鉄腕アトム」や「バンパイヤ」に虫プロが登場する回を見ました。手塚先生がドラマで演技しているのを見ると、なぜか笑えます。

14エチゴヤ手塚番鼎談
15橋本一郎さん清水マリさん著書
虫プロ見学の後は、懇親会会場のエチゴヤへ。食事の前に、3人の元手塚番による鼎談が開催されました。「週刊少年キング」で『アポロの歌』などを担当された橋本一郎さん、「週刊少年キング」で『紙の砦』などを担当された黒川拓二さん、「週刊少年チャンピオン」で『ブラック・ジャック』を担当された岡本三司さん。中でも私が印象的だったのは『紙の砦』(昭和49年9月30日号「週刊少年キング」掲載)の担当編集者だった黒川拓二さんのお話でした。『紙の砦』は、手塚先生の漫画家生活30周年と、8月の終戦記念日にあわせた企画として、手塚先生のほうから提案があったそうです。「タイトル『紙の砦』はどう?」と手塚先生と言われた時、「うわー!決まった」と黒川さんは編集部に飛んで帰ったそうです。続編の『すきっ腹のブルース』と共に「この二編は本当に担当のし甲斐があった」とのこと。原稿をもらった時は震えるほど感動したそうです。

16エチゴヤステーキ
17エチゴヤしゃぶしゃぶ
三人の手塚番のお話を聞いた後、「鉄腕アトム」の声優・清水マリさんの音頭で乾杯。総勢50名の大懇親会が始まりました。お通しの筑前煮、ポテトサラダ、お肉屋さん期待のステーキの後、しゃぶしゃぶ、最後になんとカレーライス、〆にアイスチョコバーという、フルコース料理をたっぷりいただきました。

懇親会には、虫プロ関係者では、現社長の伊藤叡さん、版権事業課の芝田達矢さん、OBの柴山達雄さん、下崎闊さん、小林準治さん、OGの渡辺佳子さんなども参加されました。また著名な方では、漫画家のみなもと太郎さん、元ハードロックバンドVOWWOWの人見元基さん、ミュージシャンでSF作家の難波弘之さんや、元NHKアナウンサーで「描きかえられた『鉄腕アトム』」著者の小野卓司さんも参加され、大いに場が盛り上がりました。

17エチゴヤ手塚キャラ原画  
エチゴヤのシャッターに描かれたキャラクター画の原画。

20エチゴヤご主人1
22エチゴヤご主人2  
エチゴヤのご主人の高橋さん親子によって、この絵の由来が語られました。

18武田さん、下崎さん
虫プロと手塚プロ両方のスタッフを務めた下崎闊さんから、当時の裏話もいろいろ伺いました。

23難波弘之さん
難波弘之さんと。

22小野卓司さん
小野卓司さんと。

19清水マリさん小林準治さん
小林準治さん、清水マリさんと記念撮影。

最後に、当日イベントの運営にあたって下さった、ファン大会実行委員会の武田聖二朗さん、
砂口景子さん、小林晃さん、原かおりさん、早川和美さん、北原隆司さん、風呂田邦郎さん、中村鮎子さんの、手塚愛とご尽力に深く感謝申し上げます。

夏休み期間中の8月2日、3日と長野県上田市へ旅行に行ってきました。上田というと、真田幸村が主人公の大河ドラマ「真田丸」で盛り上がる真田の里として知られていますが、今回は手塚ファンとしての目的も兼ねていました。実は長野県上田市は、平安時代末期の武将・手塚太郎金刺光盛とその一族が居を構えていた土地なんだそうです。手塚太郎光盛は、手塚治虫の先祖にあたり、『火の鳥 乱世編』に木曽義仲に火の鳥が見つかったと進言するワンシーンで登場します。
上田駅前の真田幸村像の前で
上田駅前の真田幸村像の前で、夫婦で記念撮影
左:上原榮治さん 右:松原光昭さん
左:上原榮治さん、右:松原光昭さん

手塚家のルーツについては、『陽だまりの樹』のもとになった深瀬泰旦氏の論文で言及され、過去の文献が多数あることもあり、今まで何となくは知っていたのですが、詳しく知るきっかけとなったのが、2016年2月12日放送のNHK「ファミリーヒストリー」でした。番組によると、長野県上田市には、「手塚」という集落があり、その地名から「手塚氏」と言われるようになったとのこと。また、須川地区には「手塚姓」の家族が今も多数存在するそうです。「手塚家祖先の墓所にご案内したいので、是非上田までお越しください」という上田市在住の手塚ファン・松原光昭さんの強いお誘いもあり、今回の上田旅行と相成ったわけです。松原さんの紹介で、8月2日の晩に初めてお会いしたのが『手塚太郎金刺光盛―手塚一族の後裔はどこへ?―』の著者・上原榮治さん。上原さんは、母方姓が「手塚」でご自身の先祖が手塚光盛だそうです。ご著書を執筆する過程で、手塚光盛の子孫の一人が手塚治虫であったことを知ったそうです。

手塚太郎金刺光盛 上原さんの本
上原榮治さんの著書『手塚太郎金刺光盛―手塚一族の後裔はどこへ?―』
手塚治虫の系図 上原さんの本

上田駅前のホテルに宿泊し、翌朝、松原さん、上原さんと待ち合わせ。手塚家祖先の墓所がある須川地区まで車で向かいました。母方の実家が須川地区にあった上原さんにとっては馴染みの場所で、近くには須川湖があり、小学生の頃、夏は水泳、冬はスケートをして遊んだそうです。須川公民館の前で車を止め、小高い丘陵地を登ると、たくさんの古い墓石が並んでいて、それが手塚家の墓所でした。

須川湖
須川湖
手塚家祖先の墓
手塚家祖先の墓

手塚太郎光盛は、一族の命運を木曽義仲に懸けていたため、1184年の粟津の戦いで木曽義仲が敗死した後、源頼朝に田畑家屋敷を没収され、一族は手塚地区から須川地区に落ち延びたそうです。落人(おちうど)となったため「手塚」の名前を出すことをはばかり、暮石には「手塚」の文字は書かれなかったそうです。
上田の地図西側 上原さんの本上田の地図東側 上原さんの本
上田市~塩田平周辺地図
『手塚太郎金刺光盛―手塚一族の後裔はどこへ?―』より

手塚光盛の墓に献花 松原さん上原さん
手塚光盛の墓に献花
手塚光盛の墓の前で
上原榮治さん

お線香とお花を手向け、4人でしばしお参り。手塚ファンであることが縁で、800年前の手塚家のルーツをたどることになるとは、とても不思議な縁だと思いました。
森晴路さん1新座手塚プロ
森晴路さん(手塚プロダクション新座スタジオにて。2014年7月21日)

4月14日、手塚プロダクション資料室長の森晴路さんの訃報を受けました。森晴路さんに初めてお会いしたのは19年前。高校の卒業旅行と称して、ファンクラブの代表の和久千賀さんを頼り、手塚プロダクション新座スタジオを訪問しました。当時のファンクラブ事務局は資料室と同室で、その時に森さんに挨拶したのが最初でした。

2006年、復活第1回の手塚治虫ファン大会で再会し、以後、10人くらいの手塚ファン仲間で年に2、3回、東京で集まり、めずらしい手塚先生の未収録漫画や手塚イベントについて、毎回3時間は手塚談義に華を咲かす飲み仲間でした。

昨年、2015年2月に治虫忌に因んだイベント、ナカノシマ大学「街から読み解く手塚治虫」を開催した時、「びっくりさせようと思った」と言って、埼玉から大阪まで4時間半かけて来て下さったのが忘れがたい思い出です。この時、森さんが録画テープを提供して下さったのが、1985年3月21日に読売テレビで放送された「11PM 手塚治虫NANIWAグラフィティ」。手塚先生が電気科学館のプラネタリウムを自ら操作する貴重な映像を、後継施設の大阪市立科学館で30年ぶりに上映できる、という奇跡のようなイベントを実現できたのも、森さんのおかげでした。

手塚治虫ファン大会では、マニアックな質問に森さんが答えるという「森さんに聞け」コーナーが、ここ数年の恒例で、欠かせない存在でした。そして、昨年の12月の手塚ファン大会でお会いしたのが最後となりました。

新座駅 アトム

突然の森さんの訃報に眠れないまま新幹線に乗り、私は新座に向かいました。

森晴路さんご葬儀2

会場には「創作ノート」「手塚治虫原画の秘密」「図説 鉄腕アトム」など、森さんが手がけた本が飾られていました。ご葬儀は「ジャングル大帝」のBGMと共にしめやかに行われました。松谷社長の弔辞は「まさか僕があなたを送ることになるとはね。だいたい、あなたは写真だってちゃんとしたのを用意してないじゃないですか。この写真、探すの大変だったんだよ。」と、森さんに語り掛けるような言葉でした。
森晴路さんご葬儀4
森晴路さんご葬儀3


ご葬儀会場で、手塚先生の元アシスタントで「手塚治虫物語」の作者である伴俊男さんと、90年代にファンクラブ事務局を務めて下さっていた和久千賀さんに再会できて嬉しかったです。そして、和久さんに現在の「手塚ファンマガジン」会誌編集の和田収さんを紹介できました。森さんがファンクラブ草創期を築いた1971年の「虫のしらせ」から脈々と受け継がれている、手塚治虫ファンクラブの輪を感じました。まさしく森さんが引き合わせて下さった縁だと思いました。

ここ数年、感じていることですが、「手塚治虫が歴史になってしまう」ことを危惧しています。手塚先生と縁のあった方の訃報を聞くたびに、自身の無力感と同時に「手塚治虫はまだ歴史ではない」「手塚治虫を歴史にしてはいけない」との思いを常々持っています。
森晴路さんご葬儀6
森晴路さんご葬儀7
森晴路さんご葬儀8
森晴路さんご葬儀9
森晴路さんご葬儀10

森晴路さんは今年の正月にサンテレビで放送された「少年・手塚治虫の宝塚」の冒頭でこう言っていました。
「先生って天才だとよく言われるんですけど僕は努力の人だと思うんです。」
その手塚先生の努力を支えたのは森さんの地道な努力。手塚先生亡き後の手塚漫画を守り続けたのは森さんだったと思います。

森晴路さんご葬儀5
森晴路さんご葬儀1