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2009.11.29
大阪駅のアンモナイト

OSAKA旅めがねプレミアムプログラム『80万乗降客の舞台裏 大阪駅』に参加しました。
現在のJR大阪駅の設計に携わったエリアクルーの岩田尚樹さんより、設計へのこだわり、思い入れ、工夫などをお聞きする盛り沢山なツアーでした。大阪駅から観光する人はたくさんいると思うけれど、大阪駅を観光する人はなかなかおらんでしょうね(笑)。
お客さんとして参加した旅めがねのエリアクルー4名、梅田ウォッチャーのゴリモンさん他、メーリングリストのメンバーも5名参加。定員いっぱいの20名の申し込みがある満員御礼のプレミアムツアーでした。


私がなんといっても一番感動したのが「ハッピーアンモナイト」探し!
中央コンコースにある柱には「ローザペルリーノ (Rosa Perlino )」という種類の大理石が使われていて、アンモナイトの化石が見られるそうです。

おお!あったあった!

ちゃんと探すと意外にすぐに見つかりますよ。


おー!この形ははっきりしてる。

ここのすごく綺麗な形のは岩田さんに言われなきゃわからない場所にありました。
知らない人が見つけるのはちょっと難しいかも。

皆さんもぜひ大坂駅を通ったらアンモナイトを探してみてください。
きっとハッピーになれますよ!(笑)。
【余談】
皆でアンモナイトの化石に向かってカメラのシャッターを切っていたらまわりから「誰がおるん?」という声が聞こえました。
誰がおるんとちゃうねん、化石があるねん。
って大坂駅のコンコースで写真を撮る人ってなかなかおらんよなー。
【参加者の方のレポート】
seemo collection OASAKA旅めがねプレミアムプログラム ~80万乗降客の舞台裏・大阪
混沌写真 : 大阪駅の舞台裏を探検!
【 ダ ク ト 屋 稼 業 】@大阪 OSAKA旅めがね 大阪駅プレミアム
WEBにしきんBlog ハッピーアンモナイト
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2009.11.25
亀山房代さんの訃報
やっぱり全国ニュースじゃなくて関西ローカルなんかな。
夕方のニュースを聞いて耳を疑いました。
訃報を知ってから涙がとまりません。
タレントさんの訃報で泣いたのって久々です。
You Tubeの動画なのでいつまで見れるかわかりませんが、今日の夕方のニュース映像です。
私にとっては、NHK「ぐるっと関西おひるまえ」のキャスターの亀ちゃんとして馴染んでいました。「ぐる関」のキャスターの頃はしょっちゅう亀ちゃんを見てたし、子育て絵日記「カメぶっく」がNHKのサイト内でも公開されていて、いつも読んでいました。イラストめっちゃ上手くて面白かった!それにしても、お子さんがまだ7歳だそうで…。亀山房代さんのブログ 「カメぶっく」の最後の日記が11月9日で子供を歯医者さんに連れて行った話…。家族を残してどんなに無念だったでしょう。
正面切って真面目に性について語れる人が少ない中で、10代を対象にした性教育を活動ってのもホントに尊敬します。
東京に引っ越されてたんですね。
どおりで大阪放送局の番組にあんまり出てないわけだ。
と思ってたらつい先日、11月20日(金)の「ふるさと歴史ウォーク 源平合戦ロマンの地をめぐる」に出てはりました。源義経が駆け降りた一ノ谷を歩いてはって「おお!久しぶりに亀ちゃんが出てる」とか思ったのがつい数日前…。だから、訃報を聞いて「嘘~!」と叫んでしまいました。この番組が放映されていた頃にはすでに危篤だったなんて…!
チャキチャキっとした元気な関西弁トークが大好きだったのに…!
42歳ってあんまりにも若すぎる…。
そして、当たり前なんやけど、人って誰でも死ぬんや~と思ってしまったのでした。
人は死というゴールに向かって生きている。
解ってても、それでもやっぱり突然の死って辛いもんですね。
あ~~~~ショックや~~~~(;-;)
心よりご冥福をお祈りします。
■公式サイト 亀山房代のブログ「カメぶっく」
■漫才の世界から見えてきたジェンダー
■ジェンターに関する問題を考える
検索で見つけたインタビュー。感動しました。
■再放送情報
かんさい特集ふるさとからあなたへ▽ふるさと歴史ウオーク源平合戦ロマンの地をめぐる
チャンネル :BShi
放送日 :2009年12月 3日(木)
放送時間 :午前1:00~午前1:45(45分)
夕方のニュースを聞いて耳を疑いました。
訃報を知ってから涙がとまりません。
タレントさんの訃報で泣いたのって久々です。
You Tubeの動画なのでいつまで見れるかわかりませんが、今日の夕方のニュース映像です。
私にとっては、NHK「ぐるっと関西おひるまえ」のキャスターの亀ちゃんとして馴染んでいました。「ぐる関」のキャスターの頃はしょっちゅう亀ちゃんを見てたし、子育て絵日記「カメぶっく」がNHKのサイト内でも公開されていて、いつも読んでいました。イラストめっちゃ上手くて面白かった!それにしても、お子さんがまだ7歳だそうで…。亀山房代さんのブログ 「カメぶっく」の最後の日記が11月9日で子供を歯医者さんに連れて行った話…。家族を残してどんなに無念だったでしょう。
正面切って真面目に性について語れる人が少ない中で、10代を対象にした性教育を活動ってのもホントに尊敬します。
東京に引っ越されてたんですね。
どおりで大阪放送局の番組にあんまり出てないわけだ。
と思ってたらつい先日、11月20日(金)の「ふるさと歴史ウォーク 源平合戦ロマンの地をめぐる」に出てはりました。源義経が駆け降りた一ノ谷を歩いてはって「おお!久しぶりに亀ちゃんが出てる」とか思ったのがつい数日前…。だから、訃報を聞いて「嘘~!」と叫んでしまいました。この番組が放映されていた頃にはすでに危篤だったなんて…!
チャキチャキっとした元気な関西弁トークが大好きだったのに…!
42歳ってあんまりにも若すぎる…。
そして、当たり前なんやけど、人って誰でも死ぬんや~と思ってしまったのでした。
人は死というゴールに向かって生きている。
解ってても、それでもやっぱり突然の死って辛いもんですね。
あ~~~~ショックや~~~~(;-;)
心よりご冥福をお祈りします。
■公式サイト 亀山房代のブログ「カメぶっく」
■漫才の世界から見えてきたジェンダー
■ジェンターに関する問題を考える
検索で見つけたインタビュー。感動しました。
■再放送情報
かんさい特集ふるさとからあなたへ▽ふるさと歴史ウオーク源平合戦ロマンの地をめぐる
チャンネル :BShi
放送日 :2009年12月 3日(木)
放送時間 :午前1:00~午前1:45(45分)
2009.11.25
湯川敏男さんの立体絵はがきがテレビで紹介されます。

大阪ええはがき研究会のメンバーで、立体絵はがきを作られている湯川敏男さんが、11月26日(木)のABC放送「ニュースゆう」で紹介されます。(関西ローカル)
午後4時50分~ 5時台の「ゆうカルチャー」というコーナーだそうです。
ぜひご覧ください。
湯川さんのブログより立体絵はがきをプリントすることができます。
■「おしとの立体絵はがきギャラリー」







2009.11.22
池田・豊中 手塚治虫記念碑ツアー
トキワ荘のヒーローたち展のスタンプラリーの記事の続きがまだ書けていませんが、先にこちらを掲載します。いつものごとく、筆の早い夫の日記より転載です。
いきなり冷え込みやがって、今日みたいな日は、布団の中でモゾモゾしながらスキウィでもチビチビとやりたいな~、なんて誘惑に駆られてしまったが、嫁さんに「サッサと起きんかい」とひっぱたかれて、心をデビルにして、一路池田まで出かけた。
何しに?
熱烈な手塚ファンであり、手塚治虫先生の生誕地・豊中に「水木ロード」ならぬ「手塚ロード」を作る事に情熱を傾けている古本屋社長・木村さんの主催による、「池田・豊中手塚治虫記念碑ツアー」に参加するためである。
手塚ゆかりの地といえば、ウチの嫁さんが「虫マップ」として主に宝塚から大阪を中心に纏めているし、江戸表では黒沢さんという方が関東のゆかりの地を纏めておられる。
で、意外にも手塚先生がお生まれになった豊中界隈は、知られているようで実はまだまだ人口に膾炙されていないのだ。
因みに北杜夫と手塚先生の対談を収録した『マンボウパジャマ対談』では、手塚先生のプロフィールは「兵庫生まれ」と記載されている。明らかに“育った”宝塚と混同されているのだ。
だから木村さんは、なんとか町興しの意味も兼ねて、手塚治虫生誕地としての豊中を世に知らしめたいのだ。
今日、その趣旨に賛同して参加したのは総勢17名。
阪急池田駅改札に集合し、みんなでブラブラとNHK「西日本の旅」よろしく大阪教育大学附属池田小学校までそぞろ歩き。

ところが、先導を切る木村さんが道を間違えはって、池田小学校の北側にまわってしまい、慰霊碑の前へ出た。全く予定外であったが、折角だからとみんなで黙祷を捧げた。この時、あまりにも非科学的だったので浦メは敢えて言わなかったんだが、あの事件で全くもって不本意に亡くなった8人の児童たちに導かれたのか、それとも手塚先生に「これを忘れては駄目ですよ」と導かれたか、とフト思ってしまった。

あの時の子らは今、ご存命ならば15~16歳である。まさに青春謳歌や。それが、あんな屑野郎一匹のテメエ勝手な屁理屈で・・・なんとも言えない怒りが静かに湧いた。
そっから大教大附属池田小学校の正門に赴き、見事な銀杏並木の下を一路、先ほどの池田小学校の表玄関へ向かった。一番目のスポット・アトムの像だ。



瞳を閉じたアトムが、地球を抱きかかえているもの。御影石であった。碑文には、「地球とそに棲むすべての生き物を愛します。」とあった。正に手塚イズムや。


みんなで記念撮影して、続いては豊中へ。

福祉関係施設である「豊中市すこやかプラザ」に、手塚先生が晩年に豊中市立第三中学校で講演された際に描かれた、手塚キャラのイラストを銅板レリーフに起こしたものが安置されているのだ。ニュースで知っていたが、実物を見るのは今日が初めてだ。

さて、そろそろ腹が減ってきたな。木村さんが予約されていたお寿司屋さん「魚治」でランチ。

実はここも手塚ゆかりの地である。店内には、B・Jとサファイアの色紙が!


ご主人に語ってもらったところによると、今から30年ぐらい前に、手塚先生が近所の会館で講演された際に道に迷われ、ウロウロされてたのをご主人が見かけ、もしかして手塚さんかな~と思って声かけると本人で、事情を聞いたんで仕出しの軽トラに先生を乗せて会館まで連れていったとか。
あとで(お礼に)食べに行きます、という手塚先生の謝辞に「たぶんリップサービスやろなぁ」と思いつつも色紙を買って待ってると、ホンマにスタッフを連れて来てくれて、サラサラッと色紙を描いてくれた由。
浦メが特に感心したのは、ご主人がレオをリクエストされた時に、先生は「お宅は食べ物商売だから動物はマズイでしょう」とアトム、B・J、サファイアを描かれたという事だ。
こういう所に気を遣える人って、浦メもそうだが今は少なくなってるんじゃないだろうか。
でも、アトムの色紙が見当たらんぞ。
実は手塚ファンであるお知り合いが亡くなられた時に、お棺に一緒に入れてあげたんだそうな。
ファンからすれば「勿体ない~」だが、ええ話やわぁ。ご主人の、今頃は天国で、先生と色紙を見せて喋ってはりまっしゃろにはクククッと泣けたぜ。泣けたのは、寿司のワサビのためじゃないのだ。

本日のラストは、木村さんのお店の2階、手塚治虫資料展だ。
以前は近くのスーパーの2階の1区間を借りてやってはったのだが、今は経営されてる古本屋の2階に移されてるのだ。

店の中は、当たり前だが古漫画だらけ。2階に上がる階段にも古漫画が山積み状態で、なんというか、壁紙が漫画の背表紙なんだな。みんなこれに感嘆の声が。
資料展では、手塚先生が黒田知事の応援演説をされた時の写真やら、お知り合い各氏から寄贈された手塚色紙、そして6年前に浦メも関わった同級生・大森先生の講演の模様、なんかが展示されていた。
ここでもY嬢やみやおさんと手塚談義に花を咲かせた。
展示品の中に、かなり昔のものと思しきアトムの色紙があった。下部には「虫プロ」と書かれていた。額の下には「暖簾亭 寄贈」とあった。
虫プロとある以上は、そしてアトムが描かれている以上は、1963年以降のものであろう。
これは如何に?と木村さんに問うと、すぐ、これの寄贈主である「暖簾亭」に連れて行ってくれた。蕎麦処&飲み処である。

店のご主人は、食事するでもなく、ただ単に色紙を見せてくれという迷惑な要望にも快く応じて下された。ありがたや。
件の色紙は、ご主人の奥様が手塚先生の妹さん・美奈子さんと学友で、その縁で正にその当時、美奈子さんに頼んで手塚先生に描いてもらったものだという。う、羨ましい。

その隣には、手塚先生が虫プロを結成された当時のスタッフがこの岡町に住んでいて、5年ほど前に描かれたヒゲオヤジの色紙が。その人の名は?と問うも、ご主人も失念されていた。残念!誰やろう。

さらにその隣には、藤本義一の色紙が。その書かれた文句は「女より仕事」
そうだ、浦メも「酒より仕事」だぞ。

こんな奥まった下町(失礼)に、こんなディープなお宝が眠っていたとわ。うぅむ、凄い。
で、さらに感動したのは、アトム色紙たちの反対側の角っこに、なにやらバタ臭い色気ある男のイラストとサインが入った色紙があるのを見つけた事。
もしや、と思ったが、やはり浦メの大好きな仲代達矢の色紙であった。

なぜ、ここに?
ご主人曰く、梅田に店を出しておられた時にご本人が来店され、サラサラッと自分の似顔絵とサインを描かれたとの由。うぎゃ~、ますます羨ましいぜぇ!
岡町も奥が深いわ。こりゃ本腰入れて探せば、日本全国アチコチに手塚遺跡が眠っておるであろうのぅ。
大満足のうちに解散。始まりがあれば終わりがあるのだ。
Yちゃんと御母堂様、いかぼんさんはここで帰られた。浦メと嫁さん、みやおさん、Y嬢、K田さんの5人は、木村さんに教えてもらった喫茶店「かたすみ」にて休憩。そこでさらに手塚談義に花を咲かせたのであった。

いや~、今日は随分歩いて、体脂肪も燃焼させ、思わぬお宝にも多数お目にかかれ、実に有意義な休日であったわい。
しかし、寒かったな。
いきなり冷え込みやがって、今日みたいな日は、布団の中でモゾモゾしながらスキウィでもチビチビとやりたいな~、なんて誘惑に駆られてしまったが、嫁さんに「サッサと起きんかい」とひっぱたかれて、心をデビルにして、一路池田まで出かけた。
何しに?
熱烈な手塚ファンであり、手塚治虫先生の生誕地・豊中に「水木ロード」ならぬ「手塚ロード」を作る事に情熱を傾けている古本屋社長・木村さんの主催による、「池田・豊中手塚治虫記念碑ツアー」に参加するためである。
手塚ゆかりの地といえば、ウチの嫁さんが「虫マップ」として主に宝塚から大阪を中心に纏めているし、江戸表では黒沢さんという方が関東のゆかりの地を纏めておられる。
で、意外にも手塚先生がお生まれになった豊中界隈は、知られているようで実はまだまだ人口に膾炙されていないのだ。
因みに北杜夫と手塚先生の対談を収録した『マンボウパジャマ対談』では、手塚先生のプロフィールは「兵庫生まれ」と記載されている。明らかに“育った”宝塚と混同されているのだ。
だから木村さんは、なんとか町興しの意味も兼ねて、手塚治虫生誕地としての豊中を世に知らしめたいのだ。
今日、その趣旨に賛同して参加したのは総勢17名。
阪急池田駅改札に集合し、みんなでブラブラとNHK「西日本の旅」よろしく大阪教育大学附属池田小学校までそぞろ歩き。

ところが、先導を切る木村さんが道を間違えはって、池田小学校の北側にまわってしまい、慰霊碑の前へ出た。全く予定外であったが、折角だからとみんなで黙祷を捧げた。この時、あまりにも非科学的だったので浦メは敢えて言わなかったんだが、あの事件で全くもって不本意に亡くなった8人の児童たちに導かれたのか、それとも手塚先生に「これを忘れては駄目ですよ」と導かれたか、とフト思ってしまった。

あの時の子らは今、ご存命ならば15~16歳である。まさに青春謳歌や。それが、あんな屑野郎一匹のテメエ勝手な屁理屈で・・・なんとも言えない怒りが静かに湧いた。
そっから大教大附属池田小学校の正門に赴き、見事な銀杏並木の下を一路、先ほどの池田小学校の表玄関へ向かった。一番目のスポット・アトムの像だ。



瞳を閉じたアトムが、地球を抱きかかえているもの。御影石であった。碑文には、「地球とそに棲むすべての生き物を愛します。」とあった。正に手塚イズムや。


みんなで記念撮影して、続いては豊中へ。

福祉関係施設である「豊中市すこやかプラザ」に、手塚先生が晩年に豊中市立第三中学校で講演された際に描かれた、手塚キャラのイラストを銅板レリーフに起こしたものが安置されているのだ。ニュースで知っていたが、実物を見るのは今日が初めてだ。

さて、そろそろ腹が減ってきたな。木村さんが予約されていたお寿司屋さん「魚治」でランチ。

実はここも手塚ゆかりの地である。店内には、B・Jとサファイアの色紙が!


ご主人に語ってもらったところによると、今から30年ぐらい前に、手塚先生が近所の会館で講演された際に道に迷われ、ウロウロされてたのをご主人が見かけ、もしかして手塚さんかな~と思って声かけると本人で、事情を聞いたんで仕出しの軽トラに先生を乗せて会館まで連れていったとか。
あとで(お礼に)食べに行きます、という手塚先生の謝辞に「たぶんリップサービスやろなぁ」と思いつつも色紙を買って待ってると、ホンマにスタッフを連れて来てくれて、サラサラッと色紙を描いてくれた由。
浦メが特に感心したのは、ご主人がレオをリクエストされた時に、先生は「お宅は食べ物商売だから動物はマズイでしょう」とアトム、B・J、サファイアを描かれたという事だ。
こういう所に気を遣える人って、浦メもそうだが今は少なくなってるんじゃないだろうか。
でも、アトムの色紙が見当たらんぞ。
実は手塚ファンであるお知り合いが亡くなられた時に、お棺に一緒に入れてあげたんだそうな。
ファンからすれば「勿体ない~」だが、ええ話やわぁ。ご主人の、今頃は天国で、先生と色紙を見せて喋ってはりまっしゃろにはクククッと泣けたぜ。泣けたのは、寿司のワサビのためじゃないのだ。

本日のラストは、木村さんのお店の2階、手塚治虫資料展だ。
以前は近くのスーパーの2階の1区間を借りてやってはったのだが、今は経営されてる古本屋の2階に移されてるのだ。

店の中は、当たり前だが古漫画だらけ。2階に上がる階段にも古漫画が山積み状態で、なんというか、壁紙が漫画の背表紙なんだな。みんなこれに感嘆の声が。
資料展では、手塚先生が黒田知事の応援演説をされた時の写真やら、お知り合い各氏から寄贈された手塚色紙、そして6年前に浦メも関わった同級生・大森先生の講演の模様、なんかが展示されていた。
ここでもY嬢やみやおさんと手塚談義に花を咲かせた。
展示品の中に、かなり昔のものと思しきアトムの色紙があった。下部には「虫プロ」と書かれていた。額の下には「暖簾亭 寄贈」とあった。
虫プロとある以上は、そしてアトムが描かれている以上は、1963年以降のものであろう。
これは如何に?と木村さんに問うと、すぐ、これの寄贈主である「暖簾亭」に連れて行ってくれた。蕎麦処&飲み処である。

店のご主人は、食事するでもなく、ただ単に色紙を見せてくれという迷惑な要望にも快く応じて下された。ありがたや。
件の色紙は、ご主人の奥様が手塚先生の妹さん・美奈子さんと学友で、その縁で正にその当時、美奈子さんに頼んで手塚先生に描いてもらったものだという。う、羨ましい。

その隣には、手塚先生が虫プロを結成された当時のスタッフがこの岡町に住んでいて、5年ほど前に描かれたヒゲオヤジの色紙が。その人の名は?と問うも、ご主人も失念されていた。残念!誰やろう。

さらにその隣には、藤本義一の色紙が。その書かれた文句は「女より仕事」
そうだ、浦メも「酒より仕事」だぞ。

こんな奥まった下町(失礼)に、こんなディープなお宝が眠っていたとわ。うぅむ、凄い。
で、さらに感動したのは、アトム色紙たちの反対側の角っこに、なにやらバタ臭い色気ある男のイラストとサインが入った色紙があるのを見つけた事。
もしや、と思ったが、やはり浦メの大好きな仲代達矢の色紙であった。

なぜ、ここに?
ご主人曰く、梅田に店を出しておられた時にご本人が来店され、サラサラッと自分の似顔絵とサインを描かれたとの由。うぎゃ~、ますます羨ましいぜぇ!
岡町も奥が深いわ。こりゃ本腰入れて探せば、日本全国アチコチに手塚遺跡が眠っておるであろうのぅ。
大満足のうちに解散。始まりがあれば終わりがあるのだ。
Yちゃんと御母堂様、いかぼんさんはここで帰られた。浦メと嫁さん、みやおさん、Y嬢、K田さんの5人は、木村さんに教えてもらった喫茶店「かたすみ」にて休憩。そこでさらに手塚談義に花を咲かせたのであった。

いや~、今日は随分歩いて、体脂肪も燃焼させ、思わぬお宝にも多数お目にかかれ、実に有意義な休日であったわい。
しかし、寒かったな。
2009.11.18
「トキワ荘のヒーローたち展」スタンプラリー【その1】
ファン大会の翌日は「トキワ荘のヒーローたち展」へ。
トキワ荘周辺は一昨年の手塚治虫ゆかりの地めぐり以来2度目です。
懇親会の席で
第一会場が池袋の豊島区立郷土資料館なので
「とりあえず池袋駅集合にしましょうか?」なんて話すと、
「それはダメです。スタンプラリーのゴールが池袋なんで、椎名町からスタートして下さい。」とウォレスさん。
「じゃ、椎名町駅に朝11時集合にしましょう」とアニメ学校の先生のぬー坊さんと、はるばるタイからファン大会のために帰国されたあっきーさんと待ち合わせをし、いざ、トキワ荘周辺のゆかりの地めぐりへ。

椎名町駅からスタートのスタンプラリー。まずは手塚治虫先生。

椎名町のいたるところに「トキワ荘のヒーローたち展」ののぼりが立っていました。
2年前より町全体で盛り上がっている感じがしていいなあ、と思いました。


2番目はテラさんこと寺田ヒロオさん。

第2会場の「豊島区立区民ひろば富士見台」に到着。

「マンガ家たちの"生活・文化圏"マップ」や昭和30年代当時の写真などが展示されていました。



熱心にマップに見入っていると、町内会の方(?)から声をかけられました。
トキワ荘の近くに藤子不二雄Aさんが住んでいた「兎荘」、赤塚不二夫さんが住んでいた「紫雲荘」が残っていて、「紫雲荘」が公開されている!という情報を教えてくださいました。
トキワ荘跡の場所は知っていたけど、「紫雲荘」の存在は初耳情報!


3番目は藤子・F・不二雄さん。


トキワ荘メンバーがよく通い詰めていたという「喫茶エデン」はここにあったらしい。
オレンジの看板があるマンションあたり。
石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、水野英子さんたちが打ち合せや原稿書きに通った音楽喫茶だそうです。

4番目は藤子不二雄Aさん。


「目白映画」は薬局になっていました。

「二又交番」は現役。


お!お店のウィンドウにトキワ荘メンバーのイラストが。


5番目はラーメンの小池さんこと鈴木伸一さんです。

赤塚不二夫さんがよくキャベツを買いに行っていたという「八百清」。

手塚先生の「トキワ荘物語」にも登場する「子育地蔵尊」。

続きま~す。
トキワ荘周辺は一昨年の手塚治虫ゆかりの地めぐり以来2度目です。
懇親会の席で
第一会場が池袋の豊島区立郷土資料館なので
「とりあえず池袋駅集合にしましょうか?」なんて話すと、
「それはダメです。スタンプラリーのゴールが池袋なんで、椎名町からスタートして下さい。」とウォレスさん。
「じゃ、椎名町駅に朝11時集合にしましょう」とアニメ学校の先生のぬー坊さんと、はるばるタイからファン大会のために帰国されたあっきーさんと待ち合わせをし、いざ、トキワ荘周辺のゆかりの地めぐりへ。

椎名町駅からスタートのスタンプラリー。まずは手塚治虫先生。

椎名町のいたるところに「トキワ荘のヒーローたち展」ののぼりが立っていました。
2年前より町全体で盛り上がっている感じがしていいなあ、と思いました。


2番目はテラさんこと寺田ヒロオさん。

第2会場の「豊島区立区民ひろば富士見台」に到着。

「マンガ家たちの"生活・文化圏"マップ」や昭和30年代当時の写真などが展示されていました。



熱心にマップに見入っていると、町内会の方(?)から声をかけられました。
トキワ荘の近くに藤子不二雄Aさんが住んでいた「兎荘」、赤塚不二夫さんが住んでいた「紫雲荘」が残っていて、「紫雲荘」が公開されている!という情報を教えてくださいました。
トキワ荘跡の場所は知っていたけど、「紫雲荘」の存在は初耳情報!


3番目は藤子・F・不二雄さん。


トキワ荘メンバーがよく通い詰めていたという「喫茶エデン」はここにあったらしい。
オレンジの看板があるマンションあたり。
石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、水野英子さんたちが打ち合せや原稿書きに通った音楽喫茶だそうです。

4番目は藤子不二雄Aさん。


「目白映画」は薬局になっていました。

「二又交番」は現役。


お!お店のウィンドウにトキワ荘メンバーのイラストが。


5番目はラーメンの小池さんこと鈴木伸一さんです。

赤塚不二夫さんがよくキャベツを買いに行っていたという「八百清」。

手塚先生の「トキワ荘物語」にも登場する「子育地蔵尊」。

続きま~す。
2009.11.12
手塚治虫ファン大会2009【その3】研究発表「手塚治虫と大阪」
ファン大会で研究発表させていただいた時の写真を手塚プロダクションからいただきましたので、掲載します。





同じく研究発表された扇谷正敏さんと。

※写真は手塚プロダクションの許可を得て掲載しております。
※モニター内の手塚作品画像の著作権は手塚プロダクションにあります。
手塚プロニュース 手塚治虫ファン大会2009 写真で見る当日のもよう
にも掲載いただきました。
■追記
皆さんがやたらベレー帽に反応するので…(笑)。
私が持っているベレー帽3種です。
白いのが初代、水色が2番目に買ったもので、ベージュが最後に買ったもの。
といってもどれも独身時代に買ったものですが^^

そして、ベレー帽につけて行った「リボンの騎士」の缶バッジ。

↓ついでに昔から描いているのりみの似顔絵。

この間のナカノシマ大学の後のオフ会で何故か「サインして下さい」と言われて書いたのりみ似顔絵入りサイン(笑)。

下記、研究発表の原稿全文です。
手塚治虫と大阪
田浦紀子
虫マップの発行
皆さんこんにちは。ご紹介いただきました田浦紀子です。宝塚から大阪にかけて関西の手塚先生ゆかりの地を記した研究誌「虫マップ」をインターネットや手塚治虫ファンクラブ会誌などで発表しております。改訂を重ねながら発信し続けて十年あまりになります。
手塚治虫ゆかりの地ツアー
先日10月24日に、私がガイドを務める「OSAKA旅めがね手塚治虫ゆかりの地めぐり」を開催しました。ツアーで配布したのがこの「大阪発見まちあるきツアーマップ 手塚治虫と大阪」です。お手元にマップがある方はご参照ください。今日はこの北船場・中之島・梅田エリアを中心に、手塚先生と大阪のかかわりについてお話したいと思います。
適塾
『陽だまりの樹』は手塚先生の曽祖父・手塚良庵を主人公にした後期の代表作で福澤諭吉の『福翁自伝』をヒントに描かれた作品です。手塚良庵は蘭学者・緒方洪庵が開いた適塾に359番目の門下生として入門しました。
適塾は現在の大阪大学の前身で、福沢諭吉、原田磊蔵、大鳥圭介など多数の門下生を輩出しました。現在は重要文化財に指定され、内部を見学することができます。
良庵が転げ落ちたほど適塾の階段は非常に急です。
2階の塾生大部屋では何十人もの塾生が寝起きしていました。人数が多かったために、一人あたり一畳分の面積が割り当てられるだけだったそうです。
『陽だまりの樹』でも大鳥圭介が良庵の刀を借りて柱に切りつけるというシーンがありましたが、塾生大部屋の真ん中の柱には刀傷があります。
現在ではあがることができませんが、適塾の隣の公園から物干しを見ることができます。
『陽だまりの樹』では、豚の頭を解剖するシーンや、福沢諭吉や手塚良庵たちが裸で花火を鑑賞するシーンで登場しました。
除痘館跡
緒方洪庵は種痘を広め、天然痘の予防に努めた人物として知られています。手塚良庵は洪庵に学び、後に江戸でお玉が池種痘所の設立に尽力しました。このことから、適塾の南にある除痘館跡(洪庵記念会・緒方ビル1階)に『陽だまりの樹』のイラストが設置されました。緒方洪庵と手塚良庵が種痘をしている様子が描かれています。
石原時計店
手塚先生はエッセイ『懐かしのプラネタリウム』の冒頭でこう語っています。
「淀屋橋交叉点の角のビルに石原時計店という立派な店がある。これは戦前、心斎橋にあった老舗で、現在の社長の石原実氏は、ぼくの小学校のクラスメートだった。彼がぼくを星の世界へいざない、プラネタリウムと結びつけてくれたのである。」
現在の石原時計店は淀屋橋にありますが、当時は心斎橋にありました。
これは大正時代の石原時計店の包装紙です。心斎橋時代の石原時計店は5階建ての大変モダンな建物で、セセッション様式の代表作として建築史上知られています。時計のほか、ダイヤモンド、写真機、楽器、自転車。これらのものが一緒に売られているのは今ではびっくりすることですが、要するに当時の輸入もの全般を扱っていた非常にハイカラなお店だったということです。
手塚先生の同級生で、現在の石原時計店の社長・石原実さんは「鉄腕アトム」などに登場する「金三角」のモデルと言われています。
大阪市立電気科学館
1937年、手塚先生が小学校3年生の頃、四ツ橋に電気科学館が開館しました。その目玉となったのが日本初のプラネタリウムです。四ツ橋から徒歩5分の心斎橋南詰に石原時計店があり、「今度近くに電気科学館ができたから」ということで、石原実さんのお父さんに連れられて行ったのが最初だったそうです。以来、手塚先生は天体に魅せられ、通いつめるようになりました。
この電気科学館のプラネタリウムは、現在中之島の大阪市立科学館に展示保存されています。
ツァイスⅡ型プラネタリウムに感激した手塚先生は同機を『漫画天文学』に登場させています。
『漫画天文学』のカットの上に描かれた手塚先生のサイン。
1987年4月4日、電気科学館50周年を機に手塚先生がご講演された時の写真です。
これらは、その際に描かれた手塚先生の直筆画です。
アトムがプラネタリウムで居眠りをしている絵が描かれています。
『紙の砦』
『紙の砦』は手塚先生の北野中学時代の戦争体験をもとに描かれた自伝マンガです。
南野中学の大寒鉄郎は満員電車から慌てて降りた所で岡本京子に出会う。鉄郎は漫画家を目指し、京子は宝塚音楽学校の生徒であり将来はオペラ歌手を目指していた。しかし、戦争は激化して京子は顔に大やけどを負ってしまう。 1945年8月15日、町の明かりを見た鉄郎は漫画家になることを決意するが京子はそのまま行方が分からなくなるのだった。
『紙の砦』のクライマックスで主人公大寒鉄郎が戦争が終わったことを喜ぶシーン
「あかりがついているぞっ。あかりがついていても爆撃されない!!やっぱり終わったんだ」
これと同じ内容の文章ががCOM’68 1 「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」に書かれています。
ぼくはその夜、自宅の宝塚から、阪急電車に乗って、 大阪へでていった。車内はガランとして幽霊電車のようにさみしかった。「あっ、大阪の町に灯りがついている!」ぼくは目を見はった。阪急百貨店のシャンデ リアが目もくらむばかりに輝いている。何年ぶりだろう!灯りがついたのは。「ああ、ぼくは生き残ったんだ。幸福だ」 これが平和というものなんだ!
(COM’68 1 収録「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」)
阪急ビルディングは、1929年に世界初のターミナル・デパート(鉄道駅を併設した百貨店)として建てられました。現在の阪急梅田駅はJRの北側にありますが、1971 年までは現在の阪急グランドビルのあたりに駅があり、改札を出るとすぐ、このシャンデリアがこうこうと輝いていたというわけです。
また、『COM』連載時の挿し絵で大シャンデリアが描かれていますが、阪急百貨店の社史によれば、大シャンデリアは金属回収令により供出させられていたそうです。したがって、手塚先生が見たものは、もう少し小振りの、別の照明であったかもしれません。あるいはこの話も手塚先生のフィクションだったかもしれません。
旧阪急梅田駅コンコースが無くなる際、この場所への思い入れからスケッチをしに何度も通いつめました。また50号サイズの日本画でも旧阪急梅田駅コンコースを描き、展覧会に出展。現在は私の自宅の玄関に飾っています。
ちなみに手塚先生は、大阪市街地へ行き来する場合(大学 時代は毎日)必ず通るこの阪急ビル近辺が思い出として強く残っているのか、作品中に何度か登場させています。
『アドルフに告ぐ』
釈放された峠草平が仁川警部とともに彼の自宅に向かうシーン。
仁川警部「なーに、電車に乗ってふたつほど向こうの駅やさかい」と言って阪急梅田駅のある阪急ビルに向かっているわけです。そして、峠草平を追うアセチレンランプの部下たちか「やつは郊外電車に乗る気です」と追うというシチュエーション。このコマの向こうに阪急ビルが描かれています。
『ブラック・ジャック』「アリの足」
小児麻痺の少年ミッちゃん(キャラ名:ケン一)が広島からの徒歩旅行の末たどり着いたのが大阪。ラストで大坂・梅田のシンボルとして阪急百貨店が描かれています。後ろに見えるのは村野藤吾が建てた通風塔、さらにその後ろに阪急の阪の字と阪急のロゴマークが見えます。
新阪急ビルあたりから阪急百貨店の南側をのぞんだ構図。
「アリの足」のラストシーンと同じ方向で描いた日本画。
このように大坂市内に手塚先生が見た風景がたくさん残っております。
また機会がありましたら、今度はぜひ現地で手塚治虫ゆかりの地をご案内できればと思います。
ご清聴ありがとうございました。





同じく研究発表された扇谷正敏さんと。

※写真は手塚プロダクションの許可を得て掲載しております。
※モニター内の手塚作品画像の著作権は手塚プロダクションにあります。
手塚プロニュース 手塚治虫ファン大会2009 写真で見る当日のもよう
にも掲載いただきました。
■追記
皆さんがやたらベレー帽に反応するので…(笑)。
私が持っているベレー帽3種です。
白いのが初代、水色が2番目に買ったもので、ベージュが最後に買ったもの。
といってもどれも独身時代に買ったものですが^^

そして、ベレー帽につけて行った「リボンの騎士」の缶バッジ。

↓ついでに昔から描いているのりみの似顔絵。

この間のナカノシマ大学の後のオフ会で何故か「サインして下さい」と言われて書いたのりみ似顔絵入りサイン(笑)。

下記、研究発表の原稿全文です。
手塚治虫と大阪
田浦紀子
虫マップの発行
皆さんこんにちは。ご紹介いただきました田浦紀子です。宝塚から大阪にかけて関西の手塚先生ゆかりの地を記した研究誌「虫マップ」をインターネットや手塚治虫ファンクラブ会誌などで発表しております。改訂を重ねながら発信し続けて十年あまりになります。
手塚治虫ゆかりの地ツアー
先日10月24日に、私がガイドを務める「OSAKA旅めがね手塚治虫ゆかりの地めぐり」を開催しました。ツアーで配布したのがこの「大阪発見まちあるきツアーマップ 手塚治虫と大阪」です。お手元にマップがある方はご参照ください。今日はこの北船場・中之島・梅田エリアを中心に、手塚先生と大阪のかかわりについてお話したいと思います。
適塾
『陽だまりの樹』は手塚先生の曽祖父・手塚良庵を主人公にした後期の代表作で福澤諭吉の『福翁自伝』をヒントに描かれた作品です。手塚良庵は蘭学者・緒方洪庵が開いた適塾に359番目の門下生として入門しました。
適塾は現在の大阪大学の前身で、福沢諭吉、原田磊蔵、大鳥圭介など多数の門下生を輩出しました。現在は重要文化財に指定され、内部を見学することができます。
良庵が転げ落ちたほど適塾の階段は非常に急です。
2階の塾生大部屋では何十人もの塾生が寝起きしていました。人数が多かったために、一人あたり一畳分の面積が割り当てられるだけだったそうです。
『陽だまりの樹』でも大鳥圭介が良庵の刀を借りて柱に切りつけるというシーンがありましたが、塾生大部屋の真ん中の柱には刀傷があります。
現在ではあがることができませんが、適塾の隣の公園から物干しを見ることができます。
『陽だまりの樹』では、豚の頭を解剖するシーンや、福沢諭吉や手塚良庵たちが裸で花火を鑑賞するシーンで登場しました。
除痘館跡
緒方洪庵は種痘を広め、天然痘の予防に努めた人物として知られています。手塚良庵は洪庵に学び、後に江戸でお玉が池種痘所の設立に尽力しました。このことから、適塾の南にある除痘館跡(洪庵記念会・緒方ビル1階)に『陽だまりの樹』のイラストが設置されました。緒方洪庵と手塚良庵が種痘をしている様子が描かれています。
石原時計店
手塚先生はエッセイ『懐かしのプラネタリウム』の冒頭でこう語っています。
「淀屋橋交叉点の角のビルに石原時計店という立派な店がある。これは戦前、心斎橋にあった老舗で、現在の社長の石原実氏は、ぼくの小学校のクラスメートだった。彼がぼくを星の世界へいざない、プラネタリウムと結びつけてくれたのである。」
現在の石原時計店は淀屋橋にありますが、当時は心斎橋にありました。
これは大正時代の石原時計店の包装紙です。心斎橋時代の石原時計店は5階建ての大変モダンな建物で、セセッション様式の代表作として建築史上知られています。時計のほか、ダイヤモンド、写真機、楽器、自転車。これらのものが一緒に売られているのは今ではびっくりすることですが、要するに当時の輸入もの全般を扱っていた非常にハイカラなお店だったということです。
手塚先生の同級生で、現在の石原時計店の社長・石原実さんは「鉄腕アトム」などに登場する「金三角」のモデルと言われています。
大阪市立電気科学館
1937年、手塚先生が小学校3年生の頃、四ツ橋に電気科学館が開館しました。その目玉となったのが日本初のプラネタリウムです。四ツ橋から徒歩5分の心斎橋南詰に石原時計店があり、「今度近くに電気科学館ができたから」ということで、石原実さんのお父さんに連れられて行ったのが最初だったそうです。以来、手塚先生は天体に魅せられ、通いつめるようになりました。
この電気科学館のプラネタリウムは、現在中之島の大阪市立科学館に展示保存されています。
ツァイスⅡ型プラネタリウムに感激した手塚先生は同機を『漫画天文学』に登場させています。
『漫画天文学』のカットの上に描かれた手塚先生のサイン。
1987年4月4日、電気科学館50周年を機に手塚先生がご講演された時の写真です。
これらは、その際に描かれた手塚先生の直筆画です。
アトムがプラネタリウムで居眠りをしている絵が描かれています。
『紙の砦』
『紙の砦』は手塚先生の北野中学時代の戦争体験をもとに描かれた自伝マンガです。
南野中学の大寒鉄郎は満員電車から慌てて降りた所で岡本京子に出会う。鉄郎は漫画家を目指し、京子は宝塚音楽学校の生徒であり将来はオペラ歌手を目指していた。しかし、戦争は激化して京子は顔に大やけどを負ってしまう。 1945年8月15日、町の明かりを見た鉄郎は漫画家になることを決意するが京子はそのまま行方が分からなくなるのだった。
『紙の砦』のクライマックスで主人公大寒鉄郎が戦争が終わったことを喜ぶシーン
「あかりがついているぞっ。あかりがついていても爆撃されない!!やっぱり終わったんだ」
これと同じ内容の文章ががCOM’68 1 「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」に書かれています。
ぼくはその夜、自宅の宝塚から、阪急電車に乗って、 大阪へでていった。車内はガランとして幽霊電車のようにさみしかった。「あっ、大阪の町に灯りがついている!」ぼくは目を見はった。阪急百貨店のシャンデ リアが目もくらむばかりに輝いている。何年ぶりだろう!灯りがついたのは。「ああ、ぼくは生き残ったんだ。幸福だ」 これが平和というものなんだ!
(COM’68 1 収録「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」)
阪急ビルディングは、1929年に世界初のターミナル・デパート(鉄道駅を併設した百貨店)として建てられました。現在の阪急梅田駅はJRの北側にありますが、1971 年までは現在の阪急グランドビルのあたりに駅があり、改札を出るとすぐ、このシャンデリアがこうこうと輝いていたというわけです。
また、『COM』連載時の挿し絵で大シャンデリアが描かれていますが、阪急百貨店の社史によれば、大シャンデリアは金属回収令により供出させられていたそうです。したがって、手塚先生が見たものは、もう少し小振りの、別の照明であったかもしれません。あるいはこの話も手塚先生のフィクションだったかもしれません。
旧阪急梅田駅コンコースが無くなる際、この場所への思い入れからスケッチをしに何度も通いつめました。また50号サイズの日本画でも旧阪急梅田駅コンコースを描き、展覧会に出展。現在は私の自宅の玄関に飾っています。
ちなみに手塚先生は、大阪市街地へ行き来する場合(大学 時代は毎日)必ず通るこの阪急ビル近辺が思い出として強く残っているのか、作品中に何度か登場させています。
『アドルフに告ぐ』
釈放された峠草平が仁川警部とともに彼の自宅に向かうシーン。
仁川警部「なーに、電車に乗ってふたつほど向こうの駅やさかい」と言って阪急梅田駅のある阪急ビルに向かっているわけです。そして、峠草平を追うアセチレンランプの部下たちか「やつは郊外電車に乗る気です」と追うというシチュエーション。このコマの向こうに阪急ビルが描かれています。
『ブラック・ジャック』「アリの足」
小児麻痺の少年ミッちゃん(キャラ名:ケン一)が広島からの徒歩旅行の末たどり着いたのが大阪。ラストで大坂・梅田のシンボルとして阪急百貨店が描かれています。後ろに見えるのは村野藤吾が建てた通風塔、さらにその後ろに阪急の阪の字と阪急のロゴマークが見えます。
新阪急ビルあたりから阪急百貨店の南側をのぞんだ構図。
「アリの足」のラストシーンと同じ方向で描いた日本画。
このように大坂市内に手塚先生が見た風景がたくさん残っております。
また機会がありましたら、今度はぜひ現地で手塚治虫ゆかりの地をご案内できればと思います。
ご清聴ありがとうございました。
2009.11.10
手塚治虫ファン大会2009【その2】大江戸てんやわんや
改めて「手塚治虫ファン大会2009」のレポートです。
夫のミクシィ日記より転載です。
7日(土)朝、7時に起きるつもりが7時半に起きてしまい、嫁さんと二人バタバタと大慌てで準備して東京へ出かけた。
「手塚治虫ファン大会」に参加するためだ。
しかも今回の大会は、嫁さんが大阪の手塚治虫ゆかりの地についての研究発表をやるもんだから、今までの大会とはちょいと勝手が違う。
新大阪でのぞみに乗り、品川で下車して山手線に乗り換えて渋谷へ。
当たり前だが休日の昼間の渋谷はヤングで溢れ返っていた。さすが首都やのぅ。
会場は渋谷シダックスホール。

今までと違って、かなりこじんまりした会場である。
最初、入口の「ファン大会 会場コチラ」というボードを見た嫁さんは、「ショボくなったな~」と嘆息をついた。確かに。
でも、「より少数でファン同士交流できるような大会を」というのがコンセプトだから、これはこれでアリだろう。
2階のホールも普通の会議室っぽく、客席最前列とステージがメチャクチャ近いがな。


やがて13:35、手塚プロ松谷社長の挨拶でスタート。
「心にいつもベレー帽を(かぶって手塚イズムを継承したい)」との挨拶が印象に残った。
続いてご子息・眞さんの挨拶、そして何故か営業部のY部長(シニカルなユーモアで、浦メも嫁さんもこの人のファンなのだ)が登場。
ファンクラブ代表Fちゃんが入院しちゃって、挨拶&会員の皆様の前にデビューできない事のお詫び・それに伴い大会実行委員会諸兄姉やゲスト出演者に迷惑かけたお詫び・会誌が遅れることのお詫び・手塚グッズを扱う会社が経営悪化し、倉庫が開けられず、商品が届かないため、物販コーナーが極めて寂しい風景になっちまったことのお詫び等々、立て続けにお詫びなさったんだが、その様子がまたなんともいえず可笑しくて、「流石はY部長」と、我ら二人は、お詫びしてはるにも拘わらず溜飲を下げてしまったのだった。
続いてはスペシャルトークショーとして、旧虫プロのOB(60~70歳!)6人がステージに上がって、共著『誰も知らない手塚治虫 虫プロてんやわんや』では書ききれなかったエピソードを披露。
6人の中で中で、非常に強烈な存在感を漂わせていたOBがいた。
当時、文芸と制作を担当していた磐紀一郎氏である。
殆ど黙して語らず、司会から「寝てないで喋って下さい」なんてツッコミを入れられていたが、丸刈り頭にモミアゲから顎にかけたヒゲ、真っ黒なサングラスというその風貌は、正に「怪僧」。
なにか喋るよう促されると、
「こういうのは話すより聞いてる方がいい」とポツリ。
最後に、順番にファンに向けて「遺言」を述べてくれと言われると、
「遺言なら、言いましょう」。
この人物は非常に気になった。言うなれば、「用心棒」における羅生門綱五郎みたいなものだ。あるいは「どですかでん」の芥川比呂志か。

で、そんな浦メをよそに、隣で落ち着きなくソワソワしていたのが嫁さんである。
このトークショーの次が、嫁の出番なのだ。
あんまりソワソワするもんだから、浦メまで落ち着かなくなっちまったわい。
「手の平に『人』と書いてペロリと舐めろ」とか、「あの和田アキ子にして未だに本番前は極度に緊張しまくるんだ。そやけど始まればあの堂々たるステージや。そやさかい胸張れ!」とか言ってなんとか落ち着かせようと試みるも、嫁さんにはまるで効果なし。
浦メは職業柄、5分前に「今から50分、喋ってくれ」と言われても全然平気なんだけど、やはり普通はそうないかんわな。

やがて嫁さんがステージに登場して、パワーポイントを駆使して「手塚治虫と大阪」をテーマに発表しだしたんだが、明らかに緊張しまくってやがる。こっちまでスリル満点やがな。
とちるなよ。泣きだすなよ。熟語とか地名とか、不得意な単語は言うなよ。
しかし、時間が経つにつれて、喋りが滑らかになりよった。
で、見事制限時間ピッタリに終了。万雷の拍手。
やれやれホッとしたわいな。
フィギアスケートの4回転ジャンプを見てる時みたいに心臓に悪いのぉ。
しかし、聞き手の森晴路氏がコメントを求められて、
「いや~、大阪には行った事ないから・・・勉強になりました。」
ただそれだけやったのにはズッコケタぜ。
なんじゃいなんじゃい、発表10分・コメント5分やなかったんかい。
これやったら浦メがステージに上がって、嫁の発表の補足&揚げ足取りをかました方がオモロカッタんとちゃうか?
続いては、2会場に分けての手塚プロ社員による「手塚先生にまつわる秘話」。
これも、正直2会場に分ける意味があったんかいな?とかなりクエスチョンであった。
何故なら、一方を聞いた人は、当然もう一方で語られる秘話は聞けないわけで、どういう経緯でこういう展開になったのかは知らないが、参加者からしてみると、これはないだろう。
ましてや「秘話第二部」においては、サブステージが終わってゾロゾロ聴衆が出てきたところでメインステージはまだ続行中という図になっちまって、あれはサブステージに参加した人は絶対フラストレーションが溜まったハズだぜ。
秘話自体は(浦メと嫁さんは一部・二部ともにメインステージを聞いたのだが)、手塚先生がB・Jの原稿がダダ遅れになって思わず「清水(秘話を語った重役さん)氏、飛行機の出発止められない?」とのたまわれた話、先生が上海に行かれた際の現地通訳がまるでストーリー漫画を理解できない人で、綱渡りで現地に住む見ず知らずの田中さんという留学生に当日オファーをかけて自転車で駆け付けてもらった話、高田馬場→東京駅までのタクシーの中で分厚い医学書3冊を一気に文字通りの斜め読みされた話なんかが次々と披露されて、非常に面白く興味深かっただけに、この2会場同時進行スタイルは実に残念だった。
特に松谷社長が仰った「先生は頭の中が写真機になっていて、即座に情報を叩きこむんだ」というコメントには、これはやはり子供の頃の、昆虫採集・観察が効力を発揮したんかな?と浦メなりに解釈したよ。
同じく会員で、宴会などで親しくお付き合い頂いている扇谷さんの「なぜ、一定のこの期間だけ集中して手塚少女漫画が発表されたか」との研究発表には、「手塚先生の少女漫画には“構図の美しさ”と“色”と“流れる音”を感じる」との一言に、言い得て妙!と嬉しくなった。
少女漫画を一気に再読してみようかしらん。
蔵出し上映は、先生がアニメにかける姿勢を語った数分間のフィルムと、実験アニメ「タバコと灰」。
実験アニメは、さすが実験だけあって、少々ディフィカルトであった。
これとても、先生は「世界丸ごとHOWマッチ」とか「クイズダービー」とか、その他各種CMなんかに出てはったんだから、そういう類がなんか残っていないものかいな。
なければ一般ファンに持ってはらしまへんかぁと募ってみてはどうだろう?
作品でいけば、それこそ昭和40年代に作られて本企画とまではいかなかった各パイロットフィルムたちを上映するとか、大昔「ひらけ!ポンキッキ」の歌のコーナーで放送された、手塚キャラと実写映像のコラボ「地球を七回半まわれ」なんかを流してくれたらええのになぁ。
それこそファン大会参加者だけの「特権」じゃないか。
フィルムが現存していない「ふしぎな少年」「ピロンの秘密」「紙人形劇版・鉄腕アトム」「ごめんねママ」を流してくれなんてムチャは求めないからさ。
ファン大会もいよいよ大詰め。恒例のカルトクイズ&大抽選会。
クイズは、途中まで順調に勝ち残れたんだが、
「2003年版アトムで天馬博士の声をあてたのは大和田伸也である。○か×か?」
で、先に負けて着席してた嫁さんの「×、×」との声に、「あれ、確か大和田やったような気がしたんだが・・・」と思いつつも×にしたら、正解は○であった。
チクショー、嫁の言う事なんか聞かなきゃ良かった!
いやいや、人のせいにしてはいかんぞ、オッサン。
抽選会のプレゼンターには、先日宝塚で行われた「手塚ワールドで音楽三昧♪」に出演した宝塚観光大使サファイアのお二人が!
おおっ、こないだも会ったねオネエサン方♪

サファイアを初めて目にする圧倒的多数の参加者からは、オオッと空気のドヨメキが。
さもありなん。
どや、可愛いおまっしゃろ?と、別に浦メの妹でも娘でもないのに何故か自慢気分になった。
ラストは、これまた恒例、みんなで「鉄腕アトム」の大合唱。
歌いながらチラチラと周りを見渡せば、老いも若きもみんな大口広げて歌ってはる。
ええなぁ~。やっぱこういう一体感はなんともいえないよね。

始まるまでは、会誌にもなかなか情報が出ず、申込ハガキの返信もなかなか来ず、「果たして開催されるんかいな」、なんて「将来に対する、ぼんやりとした不安」を抱いたりもしたもんだが、無事終わってみると、一参加者の立場で言わせてもらえば、
「良かったんじゃないか」
次回に望むのは、秘話をみんなが聞けるように、長めにセッティングしてほしいのと、もうちょい「お宝」を上映してほしい。
そして料金取ってまた立食をやればいいのだ。料理も豊富に出してさ。
多少取られても俺は行くゾ。
そこで、抽選会もさることながら、例えばウチの会社の慰安旅行でやってるような「社長とジャンケン」大会なんかをやればいいのだ。
そう、ファン同士の交流という点でいけば、慰安旅行のノリがいい。
あと、なんか書き忘れてるな・・・そやそや、今年の大会は、参加者が自由に落書きできるボードがあらへんかったな。
あれ、復活してほしいなぁ。&B・Jとか有名な作品の、有名なシーンをでっかくボードに仕立てて、そのフキダシ部分に原作とは無関係に自由にセリフを書いてもらう、なんてアソビもやったらオモロイと思うんだが。
・・・てなわけで、ダラダラと書き殴ったが、こうしてファン大会は終了したのであった。
夫のミクシィ日記より転載です。
7日(土)朝、7時に起きるつもりが7時半に起きてしまい、嫁さんと二人バタバタと大慌てで準備して東京へ出かけた。
「手塚治虫ファン大会」に参加するためだ。
しかも今回の大会は、嫁さんが大阪の手塚治虫ゆかりの地についての研究発表をやるもんだから、今までの大会とはちょいと勝手が違う。
新大阪でのぞみに乗り、品川で下車して山手線に乗り換えて渋谷へ。
当たり前だが休日の昼間の渋谷はヤングで溢れ返っていた。さすが首都やのぅ。
会場は渋谷シダックスホール。

今までと違って、かなりこじんまりした会場である。
最初、入口の「ファン大会 会場コチラ」というボードを見た嫁さんは、「ショボくなったな~」と嘆息をついた。確かに。
でも、「より少数でファン同士交流できるような大会を」というのがコンセプトだから、これはこれでアリだろう。
2階のホールも普通の会議室っぽく、客席最前列とステージがメチャクチャ近いがな。


やがて13:35、手塚プロ松谷社長の挨拶でスタート。
「心にいつもベレー帽を(かぶって手塚イズムを継承したい)」との挨拶が印象に残った。
続いてご子息・眞さんの挨拶、そして何故か営業部のY部長(シニカルなユーモアで、浦メも嫁さんもこの人のファンなのだ)が登場。
ファンクラブ代表Fちゃんが入院しちゃって、挨拶&会員の皆様の前にデビューできない事のお詫び・それに伴い大会実行委員会諸兄姉やゲスト出演者に迷惑かけたお詫び・会誌が遅れることのお詫び・手塚グッズを扱う会社が経営悪化し、倉庫が開けられず、商品が届かないため、物販コーナーが極めて寂しい風景になっちまったことのお詫び等々、立て続けにお詫びなさったんだが、その様子がまたなんともいえず可笑しくて、「流石はY部長」と、我ら二人は、お詫びしてはるにも拘わらず溜飲を下げてしまったのだった。
続いてはスペシャルトークショーとして、旧虫プロのOB(60~70歳!)6人がステージに上がって、共著『誰も知らない手塚治虫 虫プロてんやわんや』では書ききれなかったエピソードを披露。
6人の中で中で、非常に強烈な存在感を漂わせていたOBがいた。
当時、文芸と制作を担当していた磐紀一郎氏である。
殆ど黙して語らず、司会から「寝てないで喋って下さい」なんてツッコミを入れられていたが、丸刈り頭にモミアゲから顎にかけたヒゲ、真っ黒なサングラスというその風貌は、正に「怪僧」。
なにか喋るよう促されると、
「こういうのは話すより聞いてる方がいい」とポツリ。
最後に、順番にファンに向けて「遺言」を述べてくれと言われると、
「遺言なら、言いましょう」。
この人物は非常に気になった。言うなれば、「用心棒」における羅生門綱五郎みたいなものだ。あるいは「どですかでん」の芥川比呂志か。

で、そんな浦メをよそに、隣で落ち着きなくソワソワしていたのが嫁さんである。
このトークショーの次が、嫁の出番なのだ。
あんまりソワソワするもんだから、浦メまで落ち着かなくなっちまったわい。
「手の平に『人』と書いてペロリと舐めろ」とか、「あの和田アキ子にして未だに本番前は極度に緊張しまくるんだ。そやけど始まればあの堂々たるステージや。そやさかい胸張れ!」とか言ってなんとか落ち着かせようと試みるも、嫁さんにはまるで効果なし。
浦メは職業柄、5分前に「今から50分、喋ってくれ」と言われても全然平気なんだけど、やはり普通はそうないかんわな。

やがて嫁さんがステージに登場して、パワーポイントを駆使して「手塚治虫と大阪」をテーマに発表しだしたんだが、明らかに緊張しまくってやがる。こっちまでスリル満点やがな。
とちるなよ。泣きだすなよ。熟語とか地名とか、不得意な単語は言うなよ。
しかし、時間が経つにつれて、喋りが滑らかになりよった。
で、見事制限時間ピッタリに終了。万雷の拍手。
やれやれホッとしたわいな。
フィギアスケートの4回転ジャンプを見てる時みたいに心臓に悪いのぉ。
しかし、聞き手の森晴路氏がコメントを求められて、
「いや~、大阪には行った事ないから・・・勉強になりました。」
ただそれだけやったのにはズッコケタぜ。
なんじゃいなんじゃい、発表10分・コメント5分やなかったんかい。
これやったら浦メがステージに上がって、嫁の発表の補足&揚げ足取りをかました方がオモロカッタんとちゃうか?
続いては、2会場に分けての手塚プロ社員による「手塚先生にまつわる秘話」。
これも、正直2会場に分ける意味があったんかいな?とかなりクエスチョンであった。
何故なら、一方を聞いた人は、当然もう一方で語られる秘話は聞けないわけで、どういう経緯でこういう展開になったのかは知らないが、参加者からしてみると、これはないだろう。
ましてや「秘話第二部」においては、サブステージが終わってゾロゾロ聴衆が出てきたところでメインステージはまだ続行中という図になっちまって、あれはサブステージに参加した人は絶対フラストレーションが溜まったハズだぜ。
秘話自体は(浦メと嫁さんは一部・二部ともにメインステージを聞いたのだが)、手塚先生がB・Jの原稿がダダ遅れになって思わず「清水(秘話を語った重役さん)氏、飛行機の出発止められない?」とのたまわれた話、先生が上海に行かれた際の現地通訳がまるでストーリー漫画を理解できない人で、綱渡りで現地に住む見ず知らずの田中さんという留学生に当日オファーをかけて自転車で駆け付けてもらった話、高田馬場→東京駅までのタクシーの中で分厚い医学書3冊を一気に文字通りの斜め読みされた話なんかが次々と披露されて、非常に面白く興味深かっただけに、この2会場同時進行スタイルは実に残念だった。
特に松谷社長が仰った「先生は頭の中が写真機になっていて、即座に情報を叩きこむんだ」というコメントには、これはやはり子供の頃の、昆虫採集・観察が効力を発揮したんかな?と浦メなりに解釈したよ。
同じく会員で、宴会などで親しくお付き合い頂いている扇谷さんの「なぜ、一定のこの期間だけ集中して手塚少女漫画が発表されたか」との研究発表には、「手塚先生の少女漫画には“構図の美しさ”と“色”と“流れる音”を感じる」との一言に、言い得て妙!と嬉しくなった。
少女漫画を一気に再読してみようかしらん。
蔵出し上映は、先生がアニメにかける姿勢を語った数分間のフィルムと、実験アニメ「タバコと灰」。
実験アニメは、さすが実験だけあって、少々ディフィカルトであった。
これとても、先生は「世界丸ごとHOWマッチ」とか「クイズダービー」とか、その他各種CMなんかに出てはったんだから、そういう類がなんか残っていないものかいな。
なければ一般ファンに持ってはらしまへんかぁと募ってみてはどうだろう?
作品でいけば、それこそ昭和40年代に作られて本企画とまではいかなかった各パイロットフィルムたちを上映するとか、大昔「ひらけ!ポンキッキ」の歌のコーナーで放送された、手塚キャラと実写映像のコラボ「地球を七回半まわれ」なんかを流してくれたらええのになぁ。
それこそファン大会参加者だけの「特権」じゃないか。
フィルムが現存していない「ふしぎな少年」「ピロンの秘密」「紙人形劇版・鉄腕アトム」「ごめんねママ」を流してくれなんてムチャは求めないからさ。
ファン大会もいよいよ大詰め。恒例のカルトクイズ&大抽選会。
クイズは、途中まで順調に勝ち残れたんだが、
「2003年版アトムで天馬博士の声をあてたのは大和田伸也である。○か×か?」
で、先に負けて着席してた嫁さんの「×、×」との声に、「あれ、確か大和田やったような気がしたんだが・・・」と思いつつも×にしたら、正解は○であった。
チクショー、嫁の言う事なんか聞かなきゃ良かった!
いやいや、人のせいにしてはいかんぞ、オッサン。
抽選会のプレゼンターには、先日宝塚で行われた「手塚ワールドで音楽三昧♪」に出演した宝塚観光大使サファイアのお二人が!
おおっ、こないだも会ったねオネエサン方♪

サファイアを初めて目にする圧倒的多数の参加者からは、オオッと空気のドヨメキが。
さもありなん。
どや、可愛いおまっしゃろ?と、別に浦メの妹でも娘でもないのに何故か自慢気分になった。
ラストは、これまた恒例、みんなで「鉄腕アトム」の大合唱。
歌いながらチラチラと周りを見渡せば、老いも若きもみんな大口広げて歌ってはる。
ええなぁ~。やっぱこういう一体感はなんともいえないよね。

始まるまでは、会誌にもなかなか情報が出ず、申込ハガキの返信もなかなか来ず、「果たして開催されるんかいな」、なんて「将来に対する、ぼんやりとした不安」を抱いたりもしたもんだが、無事終わってみると、一参加者の立場で言わせてもらえば、
「良かったんじゃないか」
次回に望むのは、秘話をみんなが聞けるように、長めにセッティングしてほしいのと、もうちょい「お宝」を上映してほしい。
そして料金取ってまた立食をやればいいのだ。料理も豊富に出してさ。
多少取られても俺は行くゾ。
そこで、抽選会もさることながら、例えばウチの会社の慰安旅行でやってるような「社長とジャンケン」大会なんかをやればいいのだ。
そう、ファン同士の交流という点でいけば、慰安旅行のノリがいい。
あと、なんか書き忘れてるな・・・そやそや、今年の大会は、参加者が自由に落書きできるボードがあらへんかったな。
あれ、復活してほしいなぁ。&B・Jとか有名な作品の、有名なシーンをでっかくボードに仕立てて、そのフキダシ部分に原作とは無関係に自由にセリフを書いてもらう、なんてアソビもやったらオモロイと思うんだが。
・・・てなわけで、ダラダラと書き殴ったが、こうしてファン大会は終了したのであった。

2009.11.09
手塚治虫ファン大会2009【その1】
11月7日(土)、東京は渋谷のシダックスホールで行われた手塚ファン大会2009へ行ってきました。

一ヶ月前は概要レベルしか発表されておらず、いったいどうなるのかドキドキしておりましたが、とても楽しかったです。
手塚プロと手塚ファンが作る手作りのファン大会。
著名ゲストを呼ぶことはなかったけれど、テーマである「生手塚」どおりだったと思います。
媚びることなく、また飾り立てることもなく、決して派手ではないけれど、心がこもったアットホームな会でした。
次回は有料でもよいからファン大会内できっちり懇親会があるといいですね。
自分の研究発表は緊張緊張。
とにかく夢中で喋った15分間でした。
我ながら指定時間ぴったりに収まったのは上出来(笑)。
終わってすぐ手塚プロのSさんから「バッチリでしたよ」と言われ、さらに松谷社長から「とても良かったですよ」と褒めていただけたのが何より嬉しかったです。
会の終了時には「大坂発見まちあるきツアーマップ」も全部無くなりました。
なにはともあれ、私の話にきちんと耳を傾けて下さった皆様に厚く厚く深く深く御礼申し上げます。

ファン大会終了後は手塚ファンと旧虫プロメンバーを交えて20人ばかりで懇親会。
手塚談義に花を咲かせ、9時過ぎにおひらき。
宝塚から夜行バスの一人旅で上京した16歳のTちゃんを東京駅まで送ってバスに乗るのを見届けてから宿泊先のホテルへ。
翌日は、アニメーターのぬーぼーさんと、はるばるタイからファン大会のために帰国したあっきーさんと一緒にトキワ荘周辺のゆかりの地めぐり、スタンプラリーをしました。
松葉のラーメンを食べ、赤塚不二夫先生のアパート紫雲荘も見学することができました!
ゴールのトキワ荘のヒーローたち展では、トキワ荘メンバーの絵入りの襖が感激でした♪
さらに文京ふるさと歴史館の加藤謙一展もハシゴしましたが、もう足がパンパンで歩きすぎ。
盛り沢山な二日間でした。
詳細は後日ゆっくりレポート(←たぶん)したいと思います。

一ヶ月前は概要レベルしか発表されておらず、いったいどうなるのかドキドキしておりましたが、とても楽しかったです。
手塚プロと手塚ファンが作る手作りのファン大会。
著名ゲストを呼ぶことはなかったけれど、テーマである「生手塚」どおりだったと思います。
媚びることなく、また飾り立てることもなく、決して派手ではないけれど、心がこもったアットホームな会でした。
次回は有料でもよいからファン大会内できっちり懇親会があるといいですね。
自分の研究発表は緊張緊張。
とにかく夢中で喋った15分間でした。
我ながら指定時間ぴったりに収まったのは上出来(笑)。
終わってすぐ手塚プロのSさんから「バッチリでしたよ」と言われ、さらに松谷社長から「とても良かったですよ」と褒めていただけたのが何より嬉しかったです。
会の終了時には「大坂発見まちあるきツアーマップ」も全部無くなりました。
なにはともあれ、私の話にきちんと耳を傾けて下さった皆様に厚く厚く深く深く御礼申し上げます。

ファン大会終了後は手塚ファンと旧虫プロメンバーを交えて20人ばかりで懇親会。
手塚談義に花を咲かせ、9時過ぎにおひらき。
宝塚から夜行バスの一人旅で上京した16歳のTちゃんを東京駅まで送ってバスに乗るのを見届けてから宿泊先のホテルへ。
翌日は、アニメーターのぬーぼーさんと、はるばるタイからファン大会のために帰国したあっきーさんと一緒にトキワ荘周辺のゆかりの地めぐり、スタンプラリーをしました。
松葉のラーメンを食べ、赤塚不二夫先生のアパート紫雲荘も見学することができました!
ゴールのトキワ荘のヒーローたち展では、トキワ荘メンバーの絵入りの襖が感激でした♪
さらに文京ふるさと歴史館の加藤謙一展もハシゴしましたが、もう足がパンパンで歩きすぎ。
盛り沢山な二日間でした。
詳細は後日ゆっくりレポート(←たぶん)したいと思います。
2009.11.04
手塚ファン大会まであと3日…
手塚ファン大会まであと3日。
今日やっと研究発表のためのパワーポイントと原稿を手塚プロに送って準備が完了しました。ふう。
もともとは3月に上町台地100人のチカラ!で発表した「手塚治虫と大阪」がベースなんですが、なんせ1時間用に作った発表資料を10分用にまとめなおさなければならず、あれも削りたくない、これも削りたくないで原稿を短縮するのがめっちゃ大変やったのです(^^;)
第2部のトップバッターで2時55分から研究発表させていただきます!
すごく緊張していると思いますが、ぜひ聴いてください!
今日やっと研究発表のためのパワーポイントと原稿を手塚プロに送って準備が完了しました。ふう。
もともとは3月に上町台地100人のチカラ!で発表した「手塚治虫と大阪」がベースなんですが、なんせ1時間用に作った発表資料を10分用にまとめなおさなければならず、あれも削りたくない、これも削りたくないで原稿を短縮するのがめっちゃ大変やったのです(^^;)
第2部のトップバッターで2時55分から研究発表させていただきます!
すごく緊張していると思いますが、ぜひ聴いてください!
2009.11.03
今日は手塚先生の誕生日
11月3日。今日は手塚先生の誕生日、というわけで宝塚に行ってきました。
5日はナカノシマ大学、7日は手塚ファン大会。
今週は二日おきに手塚イベントです(笑)。
ちなみにナカノシマ大学では「大阪発見まちあるきツアーマップ 手塚治虫と大阪」を200人の聴講者に配布していただけることになりました♪
そして、手塚ファン大会では第2部で私が「手塚治虫と大阪」をテーマに研究発表させていただきます!
20人の前では喋るのはガイドで馴れたけど200人の前で喋るのは初めてだから緊張するな~><
さて、今日のレポートはいつものごとく筆の早い夫の日記から転載です。

「手塚ワールドで音楽三昧♪」という、イベントに行ってきた。嫁さんと、マイミクのMさんが一緒だった。

手塚先生の誕生日と、手塚治虫記念館15周年を記念して、宝塚市の主催で大阪音大と手塚プロの協力のもと、宝塚音楽学校旧校舎にて、手塚作品に因んだ音楽を、タップリと滝行の如く浴びようじゃないか、というイベントなのだ。
大して宣伝もなく、手塚プロの公式サイトにも直前まで出ていなくて、嫁さんがたまりかねて自分で書き込んで今日のイベントを宣伝したぐらいだから、動員はそんなにないだろうと思いきや、200名の椅子がほぼ埋まっていた。へえ~。
宝塚市長さんの挨拶で開会。まあ挨拶が今の市長で良かったよ。前の市長は収賄で捕まったからな、そんな輩に手塚世界を云々されるのはまっぴら御免だ。
続いて、宝塚市観光大使・「リボンの騎士」サファイアが2人、舞台に上がって挨拶。これは一般公募で募った、宝塚をPRするコンパニオンで、必ずしも原作のサファイアとクリソツというわけではないが、歌劇もイメージしたであろう華やかなコスプレで、麗しく可愛らしかった。

やはり宝塚だからね。アトム大使ってのもあるけど、ここはサファイアだよ。大使といってもこれがマグマ大使だったらなかなか辛いからな。
第一部は、まずバイオリン・ビオラ・チェロの弦楽四重奏による手塚ソングメドレー。
リボンの騎士、B・J、三つ目がとおる、ジャングル大帝が演奏された。オーケストラに慣れてるせいか、却って新鮮だった。
続いて名作「紙の砦」朗読&ピアノ即興演奏。
朗読なんていうから、椅子に座ってピアノをバックにラジオドラマの如くやってくれるのかと思ってたら、なんと寸劇だった。
舞台の袖側に据え付けられた大型スクリーンには、寸劇の展開に合わせて同作品の原稿が次々と映し出され、聴衆の理解を助けてくれた。
主人公を演じた音大生クンのビン底眼鏡が眩しい。
場面に合わせた即興ピアノも素晴らしく、なかなか良かった。しかもこのピアニストは、演奏だけでなくいきなり軍事教練の教官を演ったりしてくれてビックリだ。まるで山下洋輔のピアノ乱入だぜ。
ヒロイン京子ちゃんを演じた音大生もガッキー似で可愛らしかった。
第1部のトリを飾ったのは、ピアノ連弾による「展覧会の絵」とショパン「ピアノ協奏曲第1番第1楽章」。
「展覧会の絵」は、言わずと知れた手塚先生の実験アニメーション「展覧会の絵」に因んで。
ショパンは、これまた小粒ながらピリリと珠玉の(どんな表現だ)「虹のプレリュード」に因んで、だ。
セレクトの渋さもさることながら、ピアノ連弾という珍しい構成がグッドであった。
第1部が終了し、15分のインターバル。 すると、3階からいきなり神主さんが2人、降りてきはった。
あれ、この上で神式の結婚式でもやってたんかいな?変わってるな~
と思いつつ、第2部が始まるので席に着いた。
すると、現代雅楽による「フィガロの結婚」をやるという司会の紹介に続いて、先ほどの神主さん2人が、衣冠束帯でしずしずと舞台にお出ましになったではないか。
場内には静かなるどよめきが波打った。
現代雅楽っていうと、東儀秀樹みたいなもんか。正直、笙と竜笛によるフィガロは難しかった。フリージャズのような難しさだった。
続くアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」はメロディもよくわかって、なにより2人のうち、真っ白な神主さんがピアノを奏でる姿が、極めて不思議な光景で楽しめた。
このお二人は現役の神主で、且つ兄弟だという。何回びっくりさせてくれよるんや。
続いてはギターソロによる「どろろ」「海のトリトン」。
ユニークではあったが、やはり浦メとしては少なくとも「トリトン」はオーケストラでいってほしかったな。ハコの広さ上、オーケストラが無理なら、作曲の鈴木コルゲン宏昌はJAZZピアニストなんだから、弦楽による4ビートでも良かったかもしれん。
本日の大ラスは、ゴスペルグループによるアンサンブル。
「ハレルヤ」「For away」「シーズン オブ ラブ」そして「鉄腕アトム」と繰り広げられ、さらにフィナーレには、第1部からの出演者が舞台にズラリ並んで、聴衆も参加してのアトム大合唱。
おおっ、神主さんもいるではないか!バイオリニストの隣で竜笛を吹いてらっしゃるではないか! やはり不思議な光景だ。
この日は、手塚ファンでつい最近ファンクラブに入ったというGirlとも知り合いになれた。
彼女は、今週土曜日の手塚ファン大会atTOKYOにも夜行バスで参加するという。
若いっていいな~と溜め息つくと同時に、こんな若い人が(平成生まれだよ、平成!!)手塚ワールドにハマってくれてる事がなにより嬉しかったぜ。
文化の日にあって、実に文化的な一日であった。



5日はナカノシマ大学、7日は手塚ファン大会。
今週は二日おきに手塚イベントです(笑)。
ちなみにナカノシマ大学では「大阪発見まちあるきツアーマップ 手塚治虫と大阪」を200人の聴講者に配布していただけることになりました♪
そして、手塚ファン大会では第2部で私が「手塚治虫と大阪」をテーマに研究発表させていただきます!
20人の前では喋るのはガイドで馴れたけど200人の前で喋るのは初めてだから緊張するな~><
さて、今日のレポートはいつものごとく筆の早い夫の日記から転載です。

「手塚ワールドで音楽三昧♪」という、イベントに行ってきた。嫁さんと、マイミクのMさんが一緒だった。

手塚先生の誕生日と、手塚治虫記念館15周年を記念して、宝塚市の主催で大阪音大と手塚プロの協力のもと、宝塚音楽学校旧校舎にて、手塚作品に因んだ音楽を、タップリと滝行の如く浴びようじゃないか、というイベントなのだ。
大して宣伝もなく、手塚プロの公式サイトにも直前まで出ていなくて、嫁さんがたまりかねて自分で書き込んで今日のイベントを宣伝したぐらいだから、動員はそんなにないだろうと思いきや、200名の椅子がほぼ埋まっていた。へえ~。
宝塚市長さんの挨拶で開会。まあ挨拶が今の市長で良かったよ。前の市長は収賄で捕まったからな、そんな輩に手塚世界を云々されるのはまっぴら御免だ。
続いて、宝塚市観光大使・「リボンの騎士」サファイアが2人、舞台に上がって挨拶。これは一般公募で募った、宝塚をPRするコンパニオンで、必ずしも原作のサファイアとクリソツというわけではないが、歌劇もイメージしたであろう華やかなコスプレで、麗しく可愛らしかった。

やはり宝塚だからね。アトム大使ってのもあるけど、ここはサファイアだよ。大使といってもこれがマグマ大使だったらなかなか辛いからな。
第一部は、まずバイオリン・ビオラ・チェロの弦楽四重奏による手塚ソングメドレー。
リボンの騎士、B・J、三つ目がとおる、ジャングル大帝が演奏された。オーケストラに慣れてるせいか、却って新鮮だった。
続いて名作「紙の砦」朗読&ピアノ即興演奏。
朗読なんていうから、椅子に座ってピアノをバックにラジオドラマの如くやってくれるのかと思ってたら、なんと寸劇だった。
舞台の袖側に据え付けられた大型スクリーンには、寸劇の展開に合わせて同作品の原稿が次々と映し出され、聴衆の理解を助けてくれた。
主人公を演じた音大生クンのビン底眼鏡が眩しい。
場面に合わせた即興ピアノも素晴らしく、なかなか良かった。しかもこのピアニストは、演奏だけでなくいきなり軍事教練の教官を演ったりしてくれてビックリだ。まるで山下洋輔のピアノ乱入だぜ。
ヒロイン京子ちゃんを演じた音大生もガッキー似で可愛らしかった。
第1部のトリを飾ったのは、ピアノ連弾による「展覧会の絵」とショパン「ピアノ協奏曲第1番第1楽章」。
「展覧会の絵」は、言わずと知れた手塚先生の実験アニメーション「展覧会の絵」に因んで。
ショパンは、これまた小粒ながらピリリと珠玉の(どんな表現だ)「虹のプレリュード」に因んで、だ。
セレクトの渋さもさることながら、ピアノ連弾という珍しい構成がグッドであった。
第1部が終了し、15分のインターバル。 すると、3階からいきなり神主さんが2人、降りてきはった。
あれ、この上で神式の結婚式でもやってたんかいな?変わってるな~
と思いつつ、第2部が始まるので席に着いた。
すると、現代雅楽による「フィガロの結婚」をやるという司会の紹介に続いて、先ほどの神主さん2人が、衣冠束帯でしずしずと舞台にお出ましになったではないか。
場内には静かなるどよめきが波打った。
現代雅楽っていうと、東儀秀樹みたいなもんか。正直、笙と竜笛によるフィガロは難しかった。フリージャズのような難しさだった。
続くアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」はメロディもよくわかって、なにより2人のうち、真っ白な神主さんがピアノを奏でる姿が、極めて不思議な光景で楽しめた。
このお二人は現役の神主で、且つ兄弟だという。何回びっくりさせてくれよるんや。
続いてはギターソロによる「どろろ」「海のトリトン」。
ユニークではあったが、やはり浦メとしては少なくとも「トリトン」はオーケストラでいってほしかったな。ハコの広さ上、オーケストラが無理なら、作曲の鈴木コルゲン宏昌はJAZZピアニストなんだから、弦楽による4ビートでも良かったかもしれん。
本日の大ラスは、ゴスペルグループによるアンサンブル。
「ハレルヤ」「For away」「シーズン オブ ラブ」そして「鉄腕アトム」と繰り広げられ、さらにフィナーレには、第1部からの出演者が舞台にズラリ並んで、聴衆も参加してのアトム大合唱。
おおっ、神主さんもいるではないか!バイオリニストの隣で竜笛を吹いてらっしゃるではないか! やはり不思議な光景だ。
この日は、手塚ファンでつい最近ファンクラブに入ったというGirlとも知り合いになれた。
彼女は、今週土曜日の手塚ファン大会atTOKYOにも夜行バスで参加するという。
若いっていいな~と溜め息つくと同時に、こんな若い人が(平成生まれだよ、平成!!)手塚ワールドにハマってくれてる事がなにより嬉しかったぜ。
文化の日にあって、実に文化的な一日であった。



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