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2010.02.28
〈ラララとレレレ 手塚るみ子×赤塚りえ子〉 手塚治虫記念館ミュージアムトーク
3月7日(日)に手塚治虫記念館で手塚るみ子さん×赤塚りえ子さんのトークがあります。
http://tezukaosamu.net/jp/news/n_366.html
手塚治虫記念館開館15周年記念ミュージアムトーク〈ラララとレレレ 手塚るみ子×赤塚りえ子〉
会場: 手塚治虫記念館映像ホール〈アトムビジョン〉
(宝塚市武庫川町7番65号 JR・阪急宝塚駅、阪急宝塚南口駅)
日時: 2010年3月7日(日) 13:00〜開演
費用: 無料(ただし、入館料が必要)。入館料=大人500(400)円、中高生300(240)円、小学生100(80)円
※( )は30名以上の団体
定員: 先着50人
申込み: 3月1日(月)から、電話で手塚治虫記念館へ。先着50人。
出演者: 手るみ子さん、赤塚りえ子さん
お問合せ: 宝塚市立手治虫記念館 TEL: 0797-81-2970 FAX:0797-81-3660
URL: http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/
関連情報: 企画展「トキワ荘のヒーローたち 〜マンガにかけた青春〜」開催
http://tezukaosamu.net/jp/news/n_366.html
手塚治虫記念館開館15周年記念ミュージアムトーク〈ラララとレレレ 手塚るみ子×赤塚りえ子〉
会場: 手塚治虫記念館映像ホール〈アトムビジョン〉
(宝塚市武庫川町7番65号 JR・阪急宝塚駅、阪急宝塚南口駅)
日時: 2010年3月7日(日) 13:00〜開演
費用: 無料(ただし、入館料が必要)。入館料=大人500(400)円、中高生300(240)円、小学生100(80)円
※( )は30名以上の団体
定員: 先着50人
申込み: 3月1日(月)から、電話で手塚治虫記念館へ。先着50人。
出演者: 手るみ子さん、赤塚りえ子さん
お問合せ: 宝塚市立手治虫記念館 TEL: 0797-81-2970 FAX:0797-81-3660
URL: http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/
関連情報: 企画展「トキワ荘のヒーローたち 〜マンガにかけた青春〜」開催
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2010.02.26
「虫マップ」 共同通信の取材
「虫マップ」について共同通信の取材があり、全国の地方新聞に掲載いただきました。
下は「埼玉新聞」の記事です。

一部、私自身掲載状況を把握しておりませんが、下記の新聞に掲載いただきました。
・ 宮崎日日新聞(2月3日)
・ 山陰中央新聞(2月3日)
・ 岐阜新聞(2月6日)
・ 徳島新聞(2月10日)
・ 埼玉新聞(2月10日)
・ 京都新聞夕刊(2月13日)
おかげ様で結構「虫マップ」の注文メールをいただきました。
関西圏での紹介は今までよくあったのですが、全国区での掲載は初めてだったのでありがたい限りですm(_ _)m
下は「埼玉新聞」の記事です。

一部、私自身掲載状況を把握しておりませんが、下記の新聞に掲載いただきました。
・ 宮崎日日新聞(2月3日)
・ 山陰中央新聞(2月3日)
・ 岐阜新聞(2月6日)
・ 徳島新聞(2月10日)
・ 埼玉新聞(2月10日)
・ 京都新聞夕刊(2月13日)
おかげ様で結構「虫マップ」の注文メールをいただきました。
関西圏での紹介は今までよくあったのですが、全国区での掲載は初めてだったのでありがたい限りですm(_ _)m
2010.02.24
大オオサカまち基盤―市民による近代建築の楽しみ方―
大バンの高岡さんに声をかけていただき、2月20日(土)、「大阪市担い手育成講座」第2回で北船場近代建築のガイドを務めました。2グループに分かれて、私と高岡さんが北船場を案内し、その後、芝川ビルで高岡さんからの話題提供、各班に分かれて船場の近代建築を活用して何ができるかをディスカッションする、というワークショップが行われました。この講座で高岡さんがお話しされたのが「大オオサカまち基盤」の活動についてでした。
私が「大オオサカまち基盤」に出会ったのは2006年に行われた「船場建築祭」でした。シンポジウムの後行われた大バンによる「船場建築ぶらりツアー」に参加し、以後、大バンの毎月の定例会に出席するようになりました。2005年の旧阪急梅田駅コンコースの解体をきっかけに急速に近代建築に目覚め、その一年後に出会った大オオサカまち基盤のメンバーにものすごくシンパシーを感じ、いつのまにか自分も大バンのメンバーを名乗るようになっていました。それは、単に「消えゆく近代建築に異議申し立て」という大バンのキャッチコピーだけでなく、何よりも「近代建築を楽しむこと」をモットーにし、次々にイベントをしたりまち歩きを展開するその機動力に惹かれたのだと思います。明確な組織ではない緩やかな繋がりである大バンですが、私にとって近代建築の世界に惹きこまれたムーブメントがまさに大バンであり、大バンとの出会いなくしては今の私はないと思っています。だから、今回の高岡さんの話は共感することばかりで、本当に感動して随所で「そうそう、そうなんだよ!」と何度も頷きながら最後まで聞かせていただきました。
今、現在、「大オオサカまち基盤」は組織としての活動は休止している状態です。直接的なきっかけは、大バンのコアメンバーがビルマニアカフェ(BMC)の活動へ移行し、その興味の対象や活動の舞台が近代建築から戦後建築に移って、そこで新たなグループを結成したことでした。しかし、それで大バンのメンバー間の近代建築をめぐるやりとりが途絶えたわけではもちろんなく、何かきっかけさえあれば顔を合わせる機会は多々あります。
高岡さんが話されたように、大バンメンバー個人がそれぞれの興味に向かって、発展的に活動している結果、今、このグループとしての活動としては停まっている状況です。大バンが「発展的解消」(いい言葉ですね!)しながらも、そのスピリットを私自身近代建築のガイドをする中で受け継いでいるつもりでおります。そんな大オオサカまち基盤のスピリットを今一度記しておこうと思い、この記事を書きます。
下記は高岡伸一さんの講演です。
大オオサカまち基盤(O-ban)Since 2004
市民による近代建築の楽しみ方
話題提供:高岡伸一氏
大オオサカまち基盤の活動
皆様お疲れ様でした。まち歩きが終わったところですが、これから30分お時間をいただいて、私や田浦さんが参加している「大オオサカまち基盤」の活動についてご紹介したいと思います。

「大オオサカまち基盤」というグループがあります。我々は略して「大バン(オオバン)」と呼んでいます。グループが結成されたのは2004年です。今日見て来ていただいたように、船場地区には近代建築が多く残っています。しかし、随分無くなってしまいました。船場に三井住友銀行船場支店という銀行建築がありましたが、ある日突然解体が始まりました。私は設計を仕事にしておりますし、グループの中にも建築関係の人間が何人もいるんですが、我々専門家でも全く知らないまま、こういう近代建築がパタパタ無くなっていく。これはまずいだろうと思い立った人が仲間たちに声をかけて、「自分たちで何かできへんやろうか」というところからスタートしたのがこの集りです。

→ 大オオサカまち基盤 大大阪の近代建築の再活用から街づくりを
「大オオサカまち基盤」は、2004年に結成された市民グループです。法人でもないしNPOでもありません。市民グループという言い方もちょっと違う気がします。大人のサークルのような集まりだと思っていただいたほうがいいかもしれません。
大大阪時代、1920年代、30年代は、大阪が都市として栄えた時代でした。東京よりも人口が多くなった時があり、産業、経済、文化ともに日本をリードする都市だった時代があります。その当時の大阪の人たちが誇りをもって「大大阪」と呼んでいたんですが、その大大阪の時代の遺産を活用して今のまちの基盤にしていこうよ、とつけた名前が「大オオサカまち基盤」です。ちょっと大層な名前ですが、「大バン」という名前がいいよね、というのが先にあり、これを使うために後追いでつけたところもあります。
先ほど申し上げたように、次々に解体される近代建築を目の当たりにし、何かできないかと危機感をもった人たちが集まったんですが、集まったのは建築関係の人間ばかりではありません。半数以上は建築とは関係のない人たちでした。30代の人たちが中心で、10~15人で活動をしていました。建築、ライター、編集者、映像作家、パティシエ、一般の事務職員や学生もいました。いろんな人たちが集まってきました。もうひとつ特徴的なのは、明確な組織ではなかったことです。どこまでがグループというのは全然なく、やりたい時にやりたい人が入ってくる、出たければ出ればいい。非常にゆるやかな集まりだったのが結果として良かったと思います。設立した当初は月1回くらい週末に集まり、何ができるかなということを話していました。どういうことを目指したかというと、社会的な責任感はあまり考えておらず、自分たちが興味をもっている近代建築を楽しむことがモットーで、自分たちが面白いと思うことをやる。もちろんそれぞれ仕事を持っている人が中心でしたから、週末のオフタイムを使って自分たちができることやっています。いろんなイベントをやってきたんですね。今日は特にその中でも大きな二つのイベントをご紹介したいと思います。
大大阪サロン2005in印度ビル

印度ビルは、北浜の小西家住宅よりもう少し東側にあった近代建築です。あったというのは、残念ながら今は無くなって更地になってしまいました。我々最初の頃は皆、近代建築に詳しくなかったんですね。気になる、好きやけどようわからへん、というのがスタートで、最初の頃は皆で街中を歩いていたんですね。近代建築を見てみて、これはどういう建物でどういうところがいいよね、と言いながら歩くことをしていました。そんなことをしているうちに、本にも載っていない近代建築を見つけたんです。それが「印度ビル」という建物でした。

見つけた時はほぼ廃屋でした。1階に喫茶店が入っていましたが、2階、3階は全く使われている形跡がない、そういう近代建築を見つけたんです。中はこんなことになっていました。ホンマは入ったらダメなんですが、入れたので入っちゃったら、中はこんな荒れ方でした。ホームレスの人が一時期住みついていた生活の跡が残っていたり、屋上の小屋もボロボロで雑草も生え放題だし、部屋のペンキもボロボロ。これはどういうことかというと、ある不動産屋さんが持っていたんですが、建物を使おうという気は全くなくて、ひと区画まるまる買収できたら大きな敷地にして再開発しようと、そういう不動産の価値としてだけ持っていたんです。だから建物はどう荒れていようと全然構わない。ほったらかしだったんですね。で、使ってないんやったら「僕らここで何かできるんとちゃうか」と思ったのが最初です。印度ビルを所有している不動産屋さんを見つけ出して、お願いに行ったところ「使ってないので別にかまへんよ」と割と簡単にOKが取れたので、二日間だけ借りたんです。

それで、ここで何かイベントをしようとしたんですが、こんな状態なので、掃除しないとどうしようもないということで掃除をしました。掃除なんて誰もやりたくないですよね。でも、それを避けては何もできない。メンバーだけでは人が足りないので、大掃除イベントにしたんです。「近代建築を掃除できるなんてめったにないよ」という声のかけ方をしたら、割とたくさんの人が集まってくれました。30人くらい集まってくれて、みんな素人の集まりですから、できる範囲は限られているんですが、学校の大掃除のような感じでやったら、割と綺麗になったんです。

2005年3月に二日間イベントをやり、その中で簡単なシンポジウムをやりました。橋爪紳也さん、アート&クラフトの中谷ノボルさん、大阪歴史博物館の酒井一光さん、古い建物の活用を考えている人たちに来てもらって、こういう大阪の古い建物をどう使っていったらいいのかというシンポジウムをやってもらいました。また、屋上の小屋を綺麗にしました。不動産屋さんは壊すだけの建物なので、何をやってくれてもかまへんよ、ということだったので、勝手にペンキを塗って白くしました。メンバーにパティシエがいるので、お菓子を持ってきてもらって屋上カフェをしました。それから、なぜか散髪屋さんが現れて、「俺、屋上で散髪やりたいわ」と言いだしたので、屋上散髪屋さんをやったりしました。

あと、非常に嬉しかったのは、たまたま我々の試みを新聞社の人が見つけてくれて、取材をしてくれて記事になったんです。その記事をこの建物を建てた人のお孫さんが偶然見てくれて、コンタクトを取ってきてくれたんです。この写真の着物を着てらっしゃる方がお孫さんなんですが、その方がイベントにも来て下さいました。その出会いがすごく面白くて、昔の写真を見せて下さいました。この写真が建った当時の印度ビルの姿です。その当時は「印度ビル」という名前でなくて、「新良貴商店」という薬を扱うお店だったということがわかったんです。この写真の軍服を着ている人がコンタクトを取ってきてくれた方のお祖父さんです。戦前は薬屋さんだったんですが、戦後、インド人の手に渡って、「印度ビルと名前が変わりました。印度ビルに名前が変わってインド人がここで商売していた頃に、住み込みで働いていた夫婦のお孫さんという人が現れたんです。その人も新聞をみてコンタクトを取って来てくれたんですが、その人もやはりお祖母ちゃんから写真を預かっていて、それを見せてもらいました。インド人の人と日本人が一緒に働いている写真、それからこれは印度ビルの屋上です。バックに映っているのは三越百貨店です。今は無くなってしまい、タワーマンションが建っていますが、三越百貨店をバックにカップルが写っている写真があったりしました。このように印度ビルをめぐる歴史が、我々がイベントを打つことによって掘り返されてきたんですね。手前味噌ですが、これをやらなければ、こういう写真は外に絶対出てこなかったと思います。近代建築は建ってから80年、90年経っていますから、建物をめぐる歴史や記憶はたくさんあるわけです。建物は無くなってしまうとそういう歴史が表に出て来なくなってしまいます。そういうことを我々はこのイベントで知りました。

で、せっかくやったので、編集の人間もいるので、最終的には冊子を作って売ったりしました。
→ 大オオサカまち基盤 大大阪サロン2005in印度ビル
大大阪サロン2005in芝川ビル

これに勢いづいて2005年にもうひとつ大きなイベントをやりました。印度ビルのイベントの時に芝川ビルのオーナーさんがシンポジウムを聴きに来てくれていたんです。そこで出会いがあって、ここを使ってくれてもいいよと言ってもらい、「じゃあやります」とやったのがこのイベントです。ちょうど皆さんがいらっしゃる部屋でやったんですが、「近代建築オーナーサミット」というイベントをやりました。芝川ビル、伏見ビル、生駒ビル、北浜レトロ、児玉ビルこの5つの近代建築のオーナーさんに並んでいただいて、オーナーさんの話を聞こうというイベントをやりました。近代建築について、えらい建築家の先生や、学校の先生が建築の歴史的な価値や建物の魅力について語るセミナーは割とやっているんですが、オーナーさんの話を聞くのはなかなか無いよねというところから出てきたイベントです。こういう建物が残っているのは何よりもオーナーさんが維持しているからだろう、それぞれ苦労や思いもあるだろうがなかなか表に出てこない、それを聞こうというイベントをやり、この会場がいっぱいになりました。新聞の一面を飾りました。「ビル、レトロ、五棟を語ろう」という駄洒落がついていますが、新聞に載ったこともあって、本当にたくさんの方が来てくれました。近代建築のオーナーさんは船場という狭いエリアに集まっているんですが、それまで横のつながりがほとんどなかったんですね。それぞれが、それぞれに苦労しながら、建物を守って来たんですが、これがきっかけに横の繋がりができて、それ以降は苦労話を話し合ったり、情報交換をしたり、街歩きなどでも横の連携をとって協力的に参加してくれたり、といった繋がりができました。
→ 大オオサカまち基盤 大大阪サロン2005in芝川ビル
ここにも歴史があるんですね。ここはもともと花嫁学校でした。その当時の写真もたくさん残っていて、このイベントの時も歴史を展示しました。これは当時の写真ですが、ミシンやお花を習っていたり、今、地下のベトナム料理店になっているところが、調理実習室でした。戦前に和風だけでなく洋風の料理が習うことができたのは非常に珍しかったそうで、関西圏のお嬢さんたちがここに料理を習ってきていたという写真です。
大バングッズ

我々も半分面白がってやっているので、いろんなグッズを作って売ったりしていました。例えば、我々が勉強したことを、知らせようと簡単なフリーペーパーを作ったり(O-ban Perss)、なぜかイベントには付き物の手ぬぐい。今、簡単に作れるということもあって近代建築をモチーフにした手ぬぐいを作ったり、大大阪時代は絵はがきが非常にたくさん作られたんですね。大阪名所を紹介する絵はがき、これに近代建築がたくさん出てくるので、それを復刻して販売しました。それから近代建築のペーパークラフト。あと、大オオサカまち基盤のマークの焼印を押したお饅頭を鶴屋八幡に作ってもらってサミットに来てもらったお客さんに1個ずつ配りました。ここまでくると悪乗りなんですが、基本的には楽しむというのがベースなので、思い付きであろうが、余計であろうが、やりたいと思ったらやる、そのあたりが長く続いた秘訣かなと思います。
大正クルーズ
この時にあわせて大正クルーズというのをやりました。芝川ビルを所有している千島土地株式会社は、かつて大正区の土地開発で財をなしました。最初は唐物貿易で儲けたのですが、その後不動産に転じて、大正区のかなり広い範囲をここが開発しています。このエリアに非常にたくさん土地を持っています。そういうことも、ここのオーナーさんと出会って初めて知ったのですが、それじゃあ大正区をまわってみようということで、船を借りきってクルーズをしました。大正区は地図を見ていただければ解るとおり島なんです。川に囲まれているからぐるっと一周できるんでまわってみました。
→ 大オオサカまち基盤 大正クルーズ
印度ビルマニア

それから、この時はまだ印度ビルが残っていたので、もう一度貸してもらい、芝川ビルと印度ビルと二か所同時開催で行ったのが「印度ビルマニア」というイベントです。近代建築まるまる一棟フリーマーケットにしたようなイベントです。メンバーの知り合いに声をかけ、二日間フリーマーケットをやるからお店出さへん?ということで、いろんな人に集まってもらって、服や雑貨を売ったりカフェをやったりしました。
→ 大オオサカまち基盤 印度ビルマニア
大オオサカまち基盤の現在

今日ご紹介した二つが一番大きなイベントだったんですが、それ以外でも小さめのイベントはこれまでいくつもやってきました。2004年から始まり、もう6年経つんですが、現在は活動としてはほぼ休止状態です。ただ、「ああ面白かったな」で終わったわけではなく、いろんな形で波及をしています。ひとつはこの芝川ビルが顕著なんですが、僕たちがイベントをやった時、この屋上テラスはなかったんです。もともとテラスがあった上に鉄骨でプレハブを建てて、部屋の中にしてしまってテナントさんに貸していたんです。テナントビルなので、少しでも床面積を増やして儲けないといけませんから、建て増しして小屋の中も貸していました。でも、僕たちがイベントをやったことがひとつのきっかけになって、オーナーさんの気持ちが変わって、オリジナルに戻そうという決断をされ、現在このような形になりました。これは我々、大オオサカまち基盤の活動がひとつのきっかけになった、とオーナーさんが言って下さっています。
それから去年の冬、御堂筋のライトアップの関連イベントで周辺の近代建築のライトアップがありました。その時参加された近代建築のオーナーさんというのは、オーナーサミットに出席して下さったメンバーが中心です。この時の横の繋がりが今に繋がって一緒にやる形になっています。
また、こういう活動がきっかけになって、大阪の近代建築のガイドブックを出したり(『大大阪モダン建築』)、田浦さんも参加している「OSAKA旅めがね」で、一番人気の高い北船場のまちあるきツアーのガイドに、大バンのメンバーが何人か参加していたりします。
▼大バンメンバーが出版に関わった本
それから、私は建築の設計を仕事にしているので、こういう活動の繋がりで生駒ビルの内装設計を少し手掛けたりしました。その際もこれまでの蓄積があるので、中を綺麗にするだけでなく「ビルにあったデザインならこういう形ですよね」という話をしながら話しを進めました。このようにいろんな波及効果が現在にも続いています。
これが先ほどお話した近代建築ライトアップです。芝川ビル、生駒ビル、青山ビル、伏見ビル、北浜レトロ。北浜レトロの前にねぶた祭りのねぶたをもってきてライトアップを行いました。



それから私は大阪市立大学で講師をやっているんですが、船場の近代建築でいろんな試みをしています。綿業会館の最上階でアジア音楽のライブをしたり、町家を借りて現代作家の個展をしたり、伏見ビルの中で現代作家にインスタレーションをやってもらったり、芝川ビルの階段や廊下をステージに見立てて、そこでアーティストにパフォーマンスをしてもらう、というイベントをやったり、写真家の本城直季さんに来てもらって、大阪の近代建築を撮ってもらったりしました。この一連の動きが「大坂アートカレードスコープ」という現代アートのイベントの展示に繋がったりしました。

大オオサカまち基盤とは?
ということで、大オオサカまち基盤というひとつの市民グループの動きが、後々いろんな波及効果を生んで、今の船場の近代建築をめぐる関心の高まりに、ある一定以上の影響を与えているわけです。今、振り返ってみると「大オオサカまち基盤」は何だったのか。30代の大坂市内に住んでいる人が中心だったんですが、そんな人たちとよく言うのは、「都市の遊びって何か物を買うしかないのか」ということがあったんです。お店に行って買ったり、レストランで美味しいご飯を食べたり、そういうのももちろん楽しいんだけど、消費するだけが都市の遊びじゃないだろうというのがあったんです。その中で見つけたのが近代建築です。近代建築を使って僕たちなりの新しい遊びが何か見つけられるんじゃないかというのが、たぶんモチベーションとしてあったのだろうと思います。
さらに、これは偶然なんですが、集まった人間が、建築をはじめ、ライターや編集、映像関係、パティシエなど、何らかのスキルを持った人が偶然集まっていたので、何でも大抵のことはやれる素地があったんです。年齢的にも30代ですから、ある程度のことは解っているし、動かせる。だから時間さえ作ればなんとでもなる。もうひとつは、がんじがらめになった組織でなく、やりたい人がやりたい時に来て、やりたいようにやる。で、やりたくない人は別に参加しなくてもいいし、それに引け目を感じる必要は全くない、という非常にルーズな集まりだったので、今動いてないというところはあるんですが、しかしそういう繋がりが非常によかったと思います。それぞれ仕事をもっているので、やれる時もあるし、やれない時もある。それぞれが補い合いながら、結果的に何かが生まれていく、そういう関係性がとても良かったのではないかと思います。そういうことで、各自興味の赴くままにやってきたので、今は「大オオサカまち基盤」という組織ではなく、個人、個人がそれぞれの興味に向かって発展的に活動している結果、今、このグループとしての活動としては停まっている状況です。ですから発展的解消という形になって、それはそれで良かったのではないかと思います。その結果のひとつとして、私はこうして皆さんの前でお話していますし、田浦さんも今、こういう形でガイドをしています。ですから非常に大きな意義があったのではないかと思います。
これを実例として、皆さんなりに議論を深めていただければと思います。
どうもありがとうございました。
私が「大オオサカまち基盤」に出会ったのは2006年に行われた「船場建築祭」でした。シンポジウムの後行われた大バンによる「船場建築ぶらりツアー」に参加し、以後、大バンの毎月の定例会に出席するようになりました。2005年の旧阪急梅田駅コンコースの解体をきっかけに急速に近代建築に目覚め、その一年後に出会った大オオサカまち基盤のメンバーにものすごくシンパシーを感じ、いつのまにか自分も大バンのメンバーを名乗るようになっていました。それは、単に「消えゆく近代建築に異議申し立て」という大バンのキャッチコピーだけでなく、何よりも「近代建築を楽しむこと」をモットーにし、次々にイベントをしたりまち歩きを展開するその機動力に惹かれたのだと思います。明確な組織ではない緩やかな繋がりである大バンですが、私にとって近代建築の世界に惹きこまれたムーブメントがまさに大バンであり、大バンとの出会いなくしては今の私はないと思っています。だから、今回の高岡さんの話は共感することばかりで、本当に感動して随所で「そうそう、そうなんだよ!」と何度も頷きながら最後まで聞かせていただきました。
今、現在、「大オオサカまち基盤」は組織としての活動は休止している状態です。直接的なきっかけは、大バンのコアメンバーがビルマニアカフェ(BMC)の活動へ移行し、その興味の対象や活動の舞台が近代建築から戦後建築に移って、そこで新たなグループを結成したことでした。しかし、それで大バンのメンバー間の近代建築をめぐるやりとりが途絶えたわけではもちろんなく、何かきっかけさえあれば顔を合わせる機会は多々あります。
高岡さんが話されたように、大バンメンバー個人がそれぞれの興味に向かって、発展的に活動している結果、今、このグループとしての活動としては停まっている状況です。大バンが「発展的解消」(いい言葉ですね!)しながらも、そのスピリットを私自身近代建築のガイドをする中で受け継いでいるつもりでおります。そんな大オオサカまち基盤のスピリットを今一度記しておこうと思い、この記事を書きます。
下記は高岡伸一さんの講演です。
大オオサカまち基盤(O-ban)Since 2004
市民による近代建築の楽しみ方
話題提供:高岡伸一氏
大オオサカまち基盤の活動
皆様お疲れ様でした。まち歩きが終わったところですが、これから30分お時間をいただいて、私や田浦さんが参加している「大オオサカまち基盤」の活動についてご紹介したいと思います。

「大オオサカまち基盤」というグループがあります。我々は略して「大バン(オオバン)」と呼んでいます。グループが結成されたのは2004年です。今日見て来ていただいたように、船場地区には近代建築が多く残っています。しかし、随分無くなってしまいました。船場に三井住友銀行船場支店という銀行建築がありましたが、ある日突然解体が始まりました。私は設計を仕事にしておりますし、グループの中にも建築関係の人間が何人もいるんですが、我々専門家でも全く知らないまま、こういう近代建築がパタパタ無くなっていく。これはまずいだろうと思い立った人が仲間たちに声をかけて、「自分たちで何かできへんやろうか」というところからスタートしたのがこの集りです。

→ 大オオサカまち基盤 大大阪の近代建築の再活用から街づくりを
「大オオサカまち基盤」は、2004年に結成された市民グループです。法人でもないしNPOでもありません。市民グループという言い方もちょっと違う気がします。大人のサークルのような集まりだと思っていただいたほうがいいかもしれません。
大大阪時代、1920年代、30年代は、大阪が都市として栄えた時代でした。東京よりも人口が多くなった時があり、産業、経済、文化ともに日本をリードする都市だった時代があります。その当時の大阪の人たちが誇りをもって「大大阪」と呼んでいたんですが、その大大阪の時代の遺産を活用して今のまちの基盤にしていこうよ、とつけた名前が「大オオサカまち基盤」です。ちょっと大層な名前ですが、「大バン」という名前がいいよね、というのが先にあり、これを使うために後追いでつけたところもあります。
先ほど申し上げたように、次々に解体される近代建築を目の当たりにし、何かできないかと危機感をもった人たちが集まったんですが、集まったのは建築関係の人間ばかりではありません。半数以上は建築とは関係のない人たちでした。30代の人たちが中心で、10~15人で活動をしていました。建築、ライター、編集者、映像作家、パティシエ、一般の事務職員や学生もいました。いろんな人たちが集まってきました。もうひとつ特徴的なのは、明確な組織ではなかったことです。どこまでがグループというのは全然なく、やりたい時にやりたい人が入ってくる、出たければ出ればいい。非常にゆるやかな集まりだったのが結果として良かったと思います。設立した当初は月1回くらい週末に集まり、何ができるかなということを話していました。どういうことを目指したかというと、社会的な責任感はあまり考えておらず、自分たちが興味をもっている近代建築を楽しむことがモットーで、自分たちが面白いと思うことをやる。もちろんそれぞれ仕事を持っている人が中心でしたから、週末のオフタイムを使って自分たちができることやっています。いろんなイベントをやってきたんですね。今日は特にその中でも大きな二つのイベントをご紹介したいと思います。
大大阪サロン2005in印度ビル

印度ビルは、北浜の小西家住宅よりもう少し東側にあった近代建築です。あったというのは、残念ながら今は無くなって更地になってしまいました。我々最初の頃は皆、近代建築に詳しくなかったんですね。気になる、好きやけどようわからへん、というのがスタートで、最初の頃は皆で街中を歩いていたんですね。近代建築を見てみて、これはどういう建物でどういうところがいいよね、と言いながら歩くことをしていました。そんなことをしているうちに、本にも載っていない近代建築を見つけたんです。それが「印度ビル」という建物でした。

見つけた時はほぼ廃屋でした。1階に喫茶店が入っていましたが、2階、3階は全く使われている形跡がない、そういう近代建築を見つけたんです。中はこんなことになっていました。ホンマは入ったらダメなんですが、入れたので入っちゃったら、中はこんな荒れ方でした。ホームレスの人が一時期住みついていた生活の跡が残っていたり、屋上の小屋もボロボロで雑草も生え放題だし、部屋のペンキもボロボロ。これはどういうことかというと、ある不動産屋さんが持っていたんですが、建物を使おうという気は全くなくて、ひと区画まるまる買収できたら大きな敷地にして再開発しようと、そういう不動産の価値としてだけ持っていたんです。だから建物はどう荒れていようと全然構わない。ほったらかしだったんですね。で、使ってないんやったら「僕らここで何かできるんとちゃうか」と思ったのが最初です。印度ビルを所有している不動産屋さんを見つけ出して、お願いに行ったところ「使ってないので別にかまへんよ」と割と簡単にOKが取れたので、二日間だけ借りたんです。

それで、ここで何かイベントをしようとしたんですが、こんな状態なので、掃除しないとどうしようもないということで掃除をしました。掃除なんて誰もやりたくないですよね。でも、それを避けては何もできない。メンバーだけでは人が足りないので、大掃除イベントにしたんです。「近代建築を掃除できるなんてめったにないよ」という声のかけ方をしたら、割とたくさんの人が集まってくれました。30人くらい集まってくれて、みんな素人の集まりですから、できる範囲は限られているんですが、学校の大掃除のような感じでやったら、割と綺麗になったんです。

2005年3月に二日間イベントをやり、その中で簡単なシンポジウムをやりました。橋爪紳也さん、アート&クラフトの中谷ノボルさん、大阪歴史博物館の酒井一光さん、古い建物の活用を考えている人たちに来てもらって、こういう大阪の古い建物をどう使っていったらいいのかというシンポジウムをやってもらいました。また、屋上の小屋を綺麗にしました。不動産屋さんは壊すだけの建物なので、何をやってくれてもかまへんよ、ということだったので、勝手にペンキを塗って白くしました。メンバーにパティシエがいるので、お菓子を持ってきてもらって屋上カフェをしました。それから、なぜか散髪屋さんが現れて、「俺、屋上で散髪やりたいわ」と言いだしたので、屋上散髪屋さんをやったりしました。

あと、非常に嬉しかったのは、たまたま我々の試みを新聞社の人が見つけてくれて、取材をしてくれて記事になったんです。その記事をこの建物を建てた人のお孫さんが偶然見てくれて、コンタクトを取ってきてくれたんです。この写真の着物を着てらっしゃる方がお孫さんなんですが、その方がイベントにも来て下さいました。その出会いがすごく面白くて、昔の写真を見せて下さいました。この写真が建った当時の印度ビルの姿です。その当時は「印度ビル」という名前でなくて、「新良貴商店」という薬を扱うお店だったということがわかったんです。この写真の軍服を着ている人がコンタクトを取ってきてくれた方のお祖父さんです。戦前は薬屋さんだったんですが、戦後、インド人の手に渡って、「印度ビルと名前が変わりました。印度ビルに名前が変わってインド人がここで商売していた頃に、住み込みで働いていた夫婦のお孫さんという人が現れたんです。その人も新聞をみてコンタクトを取って来てくれたんですが、その人もやはりお祖母ちゃんから写真を預かっていて、それを見せてもらいました。インド人の人と日本人が一緒に働いている写真、それからこれは印度ビルの屋上です。バックに映っているのは三越百貨店です。今は無くなってしまい、タワーマンションが建っていますが、三越百貨店をバックにカップルが写っている写真があったりしました。このように印度ビルをめぐる歴史が、我々がイベントを打つことによって掘り返されてきたんですね。手前味噌ですが、これをやらなければ、こういう写真は外に絶対出てこなかったと思います。近代建築は建ってから80年、90年経っていますから、建物をめぐる歴史や記憶はたくさんあるわけです。建物は無くなってしまうとそういう歴史が表に出て来なくなってしまいます。そういうことを我々はこのイベントで知りました。

で、せっかくやったので、編集の人間もいるので、最終的には冊子を作って売ったりしました。
→ 大オオサカまち基盤 大大阪サロン2005in印度ビル
大大阪サロン2005in芝川ビル

これに勢いづいて2005年にもうひとつ大きなイベントをやりました。印度ビルのイベントの時に芝川ビルのオーナーさんがシンポジウムを聴きに来てくれていたんです。そこで出会いがあって、ここを使ってくれてもいいよと言ってもらい、「じゃあやります」とやったのがこのイベントです。ちょうど皆さんがいらっしゃる部屋でやったんですが、「近代建築オーナーサミット」というイベントをやりました。芝川ビル、伏見ビル、生駒ビル、北浜レトロ、児玉ビルこの5つの近代建築のオーナーさんに並んでいただいて、オーナーさんの話を聞こうというイベントをやりました。近代建築について、えらい建築家の先生や、学校の先生が建築の歴史的な価値や建物の魅力について語るセミナーは割とやっているんですが、オーナーさんの話を聞くのはなかなか無いよねというところから出てきたイベントです。こういう建物が残っているのは何よりもオーナーさんが維持しているからだろう、それぞれ苦労や思いもあるだろうがなかなか表に出てこない、それを聞こうというイベントをやり、この会場がいっぱいになりました。新聞の一面を飾りました。「ビル、レトロ、五棟を語ろう」という駄洒落がついていますが、新聞に載ったこともあって、本当にたくさんの方が来てくれました。近代建築のオーナーさんは船場という狭いエリアに集まっているんですが、それまで横のつながりがほとんどなかったんですね。それぞれが、それぞれに苦労しながら、建物を守って来たんですが、これがきっかけに横の繋がりができて、それ以降は苦労話を話し合ったり、情報交換をしたり、街歩きなどでも横の連携をとって協力的に参加してくれたり、といった繋がりができました。
→ 大オオサカまち基盤 大大阪サロン2005in芝川ビル
ここにも歴史があるんですね。ここはもともと花嫁学校でした。その当時の写真もたくさん残っていて、このイベントの時も歴史を展示しました。これは当時の写真ですが、ミシンやお花を習っていたり、今、地下のベトナム料理店になっているところが、調理実習室でした。戦前に和風だけでなく洋風の料理が習うことができたのは非常に珍しかったそうで、関西圏のお嬢さんたちがここに料理を習ってきていたという写真です。
大バングッズ

我々も半分面白がってやっているので、いろんなグッズを作って売ったりしていました。例えば、我々が勉強したことを、知らせようと簡単なフリーペーパーを作ったり(O-ban Perss)、なぜかイベントには付き物の手ぬぐい。今、簡単に作れるということもあって近代建築をモチーフにした手ぬぐいを作ったり、大大阪時代は絵はがきが非常にたくさん作られたんですね。大阪名所を紹介する絵はがき、これに近代建築がたくさん出てくるので、それを復刻して販売しました。それから近代建築のペーパークラフト。あと、大オオサカまち基盤のマークの焼印を押したお饅頭を鶴屋八幡に作ってもらってサミットに来てもらったお客さんに1個ずつ配りました。ここまでくると悪乗りなんですが、基本的には楽しむというのがベースなので、思い付きであろうが、余計であろうが、やりたいと思ったらやる、そのあたりが長く続いた秘訣かなと思います。
大正クルーズ
この時にあわせて大正クルーズというのをやりました。芝川ビルを所有している千島土地株式会社は、かつて大正区の土地開発で財をなしました。最初は唐物貿易で儲けたのですが、その後不動産に転じて、大正区のかなり広い範囲をここが開発しています。このエリアに非常にたくさん土地を持っています。そういうことも、ここのオーナーさんと出会って初めて知ったのですが、それじゃあ大正区をまわってみようということで、船を借りきってクルーズをしました。大正区は地図を見ていただければ解るとおり島なんです。川に囲まれているからぐるっと一周できるんでまわってみました。
→ 大オオサカまち基盤 大正クルーズ
印度ビルマニア

それから、この時はまだ印度ビルが残っていたので、もう一度貸してもらい、芝川ビルと印度ビルと二か所同時開催で行ったのが「印度ビルマニア」というイベントです。近代建築まるまる一棟フリーマーケットにしたようなイベントです。メンバーの知り合いに声をかけ、二日間フリーマーケットをやるからお店出さへん?ということで、いろんな人に集まってもらって、服や雑貨を売ったりカフェをやったりしました。
→ 大オオサカまち基盤 印度ビルマニア
大オオサカまち基盤の現在

今日ご紹介した二つが一番大きなイベントだったんですが、それ以外でも小さめのイベントはこれまでいくつもやってきました。2004年から始まり、もう6年経つんですが、現在は活動としてはほぼ休止状態です。ただ、「ああ面白かったな」で終わったわけではなく、いろんな形で波及をしています。ひとつはこの芝川ビルが顕著なんですが、僕たちがイベントをやった時、この屋上テラスはなかったんです。もともとテラスがあった上に鉄骨でプレハブを建てて、部屋の中にしてしまってテナントさんに貸していたんです。テナントビルなので、少しでも床面積を増やして儲けないといけませんから、建て増しして小屋の中も貸していました。でも、僕たちがイベントをやったことがひとつのきっかけになって、オーナーさんの気持ちが変わって、オリジナルに戻そうという決断をされ、現在このような形になりました。これは我々、大オオサカまち基盤の活動がひとつのきっかけになった、とオーナーさんが言って下さっています。
それから去年の冬、御堂筋のライトアップの関連イベントで周辺の近代建築のライトアップがありました。その時参加された近代建築のオーナーさんというのは、オーナーサミットに出席して下さったメンバーが中心です。この時の横の繋がりが今に繋がって一緒にやる形になっています。
また、こういう活動がきっかけになって、大阪の近代建築のガイドブックを出したり(『大大阪モダン建築』)、田浦さんも参加している「OSAKA旅めがね」で、一番人気の高い北船場のまちあるきツアーのガイドに、大バンのメンバーが何人か参加していたりします。
▼大バンメンバーが出版に関わった本
それから、私は建築の設計を仕事にしているので、こういう活動の繋がりで生駒ビルの内装設計を少し手掛けたりしました。その際もこれまでの蓄積があるので、中を綺麗にするだけでなく「ビルにあったデザインならこういう形ですよね」という話をしながら話しを進めました。このようにいろんな波及効果が現在にも続いています。
これが先ほどお話した近代建築ライトアップです。芝川ビル、生駒ビル、青山ビル、伏見ビル、北浜レトロ。北浜レトロの前にねぶた祭りのねぶたをもってきてライトアップを行いました。



それから私は大阪市立大学で講師をやっているんですが、船場の近代建築でいろんな試みをしています。綿業会館の最上階でアジア音楽のライブをしたり、町家を借りて現代作家の個展をしたり、伏見ビルの中で現代作家にインスタレーションをやってもらったり、芝川ビルの階段や廊下をステージに見立てて、そこでアーティストにパフォーマンスをしてもらう、というイベントをやったり、写真家の本城直季さんに来てもらって、大阪の近代建築を撮ってもらったりしました。この一連の動きが「大坂アートカレードスコープ」という現代アートのイベントの展示に繋がったりしました。

大オオサカまち基盤とは?
ということで、大オオサカまち基盤というひとつの市民グループの動きが、後々いろんな波及効果を生んで、今の船場の近代建築をめぐる関心の高まりに、ある一定以上の影響を与えているわけです。今、振り返ってみると「大オオサカまち基盤」は何だったのか。30代の大坂市内に住んでいる人が中心だったんですが、そんな人たちとよく言うのは、「都市の遊びって何か物を買うしかないのか」ということがあったんです。お店に行って買ったり、レストランで美味しいご飯を食べたり、そういうのももちろん楽しいんだけど、消費するだけが都市の遊びじゃないだろうというのがあったんです。その中で見つけたのが近代建築です。近代建築を使って僕たちなりの新しい遊びが何か見つけられるんじゃないかというのが、たぶんモチベーションとしてあったのだろうと思います。
さらに、これは偶然なんですが、集まった人間が、建築をはじめ、ライターや編集、映像関係、パティシエなど、何らかのスキルを持った人が偶然集まっていたので、何でも大抵のことはやれる素地があったんです。年齢的にも30代ですから、ある程度のことは解っているし、動かせる。だから時間さえ作ればなんとでもなる。もうひとつは、がんじがらめになった組織でなく、やりたい人がやりたい時に来て、やりたいようにやる。で、やりたくない人は別に参加しなくてもいいし、それに引け目を感じる必要は全くない、という非常にルーズな集まりだったので、今動いてないというところはあるんですが、しかしそういう繋がりが非常によかったと思います。それぞれ仕事をもっているので、やれる時もあるし、やれない時もある。それぞれが補い合いながら、結果的に何かが生まれていく、そういう関係性がとても良かったのではないかと思います。そういうことで、各自興味の赴くままにやってきたので、今は「大オオサカまち基盤」という組織ではなく、個人、個人がそれぞれの興味に向かって発展的に活動している結果、今、このグループとしての活動としては停まっている状況です。ですから発展的解消という形になって、それはそれで良かったのではないかと思います。その結果のひとつとして、私はこうして皆さんの前でお話していますし、田浦さんも今、こういう形でガイドをしています。ですから非常に大きな意義があったのではないかと思います。
これを実例として、皆さんなりに議論を深めていただければと思います。
どうもありがとうございました。
2010.02.20
船場アートカフェ■万博マニアナイト
船場アートカフェで行われている「マンスリーアートカフェ」 。
明日は橋爪紳也先生による「万博マニアナイト」です。
万博マニアナイト
2月21日(日)19:00~
橋爪紳也 氏
共催: 博覧会文化史研究会
上海万博の大阪出展でプロデューサーを務める橋爪紳也が、自らその経緯とビジョンを紹介します。秘蔵万博グッズの展示あり。〈交流会あり〉
明日は橋爪紳也先生による「万博マニアナイト」です。
万博マニアナイト
2月21日(日)19:00~
橋爪紳也 氏
共催: 博覧会文化史研究会
上海万博の大阪出展でプロデューサーを務める橋爪紳也が、自らその経緯とビジョンを紹介します。秘蔵万博グッズの展示あり。〈交流会あり〉
2010.02.20
2月21日(日)PM7:57~「オレたち!クイズMAN」で手塚治虫クイズ
手塚治虫公式サイトより転載です。
http://tezukaosamu.net/jp/news/n_363.html
「オレたち!クイズMAN」で手塚治虫クイズ!毎週日曜よる7:57から放送中のTBSのクイズ番組「オレたち!クイズMAN」で、手塚治虫についてのクイズが放送予定です。放送は、2月21日(日) 7:57〜。
コーナーは15分程度。番組内のどこかで登場します。
あなたもテレビの前で挑戦してみては??
URL:http://www.tbs.co.jp/quiz-man/
http://tezukaosamu.net/jp/news/n_363.html
「オレたち!クイズMAN」で手塚治虫クイズ!毎週日曜よる7:57から放送中のTBSのクイズ番組「オレたち!クイズMAN」で、手塚治虫についてのクイズが放送予定です。放送は、2月21日(日) 7:57〜。
コーナーは15分程度。番組内のどこかで登場します。
あなたもテレビの前で挑戦してみては??
URL:http://www.tbs.co.jp/quiz-man/
2010.02.18
「巨大"火の鳥"ができるまで」展

備忘録です。明日より、京都国際マンガミュージアムで「巨大"火の鳥"ができるまで」展が開催されます。

http://www.kyotomm.jp/event/exh/hinotori2010.php
「巨大"火の鳥"ができるまで」展
~手塚治虫氏による貴重な「火の鳥」原画も初公開!~
京都国際マンガミュージアムではこの度、昨年9月に当施設の吹き抜け壁面に設置された「火の鳥」の巨大オブジェが制作された過程をご紹介する展示を下記のとおり開催いたします。
なお、本展示は,京都市内博物館施設連絡協議会、京都市教育委員会主催「第15回京都ミュージアムロード」参画事業です。
巨大火の鳥のオブジェは京都市が伝統産業製品の魅力を広く発信するために取り組んでいる「京もの活用事業」の一環として、仏師・須藤光昭氏により仏像彫刻の技によって制作されました。本展は、オブジェ完成を祝うと共に仏師によって生み出されたオブジェが制作された過程を、写真やミニチュア模型などによって展示公開いたします。また、期を同じくして当館に寄贈された火の鳥(ギリシャ編)の原画の初公開や、関連書籍読書コーナーなど火の鳥の世界に浸っていただけます。貴重な機会です。
お見逃しなく!
期間 2010年2月19日(金)~3月19日(金)
◇開館時間:午前10時~午後6時(入館は午後5時30分まで)
◇休館日:毎週水曜日、2/22(月)~25(木)
会場 京都国際マンガミュージアム 吹抜けホール・2階 ギャラリー4
料金 無料
※ミュージアムへの入場料は別途必要です
内容 (1) 巨大火の鳥オブジェ(材木:紅松 縦4.5m×横11m)
(2) 巨大火の鳥オブジェの制作過程の写真等パネル
(3) ミニチュア模型(スケール:20分の1) 3体
(4) 制作者 仏師・須藤光昭氏のインタビュー映像
(5) 手塚治虫氏がファンに送った「火の鳥(ギリシャ編)」原画
(6) 「火の鳥」関連読書コーナー(約25冊・英語版あり
関連販売 西陣織による「火の鳥」柄のネクタイの販売
今回の火の鳥オブジェ完成除幕式(昨年9月開催)の記念品として制作された西陣織による「火の鳥」柄のネクタイが、関係者の間で大変好評であったため、ミュージアムショップで販売されています。
(1) 商 品:「火の鳥」柄のネクタイ 2種類 計4色
(2) 価 格:6,000円(税込)
主催:京都国際マンガミュージアム
協力:手塚プロダクション、京都府仏具協同組合
2010.02.15
手塚治虫没後21年トーク&コンサート
延命湯コンサート終了!
ご参加の皆様、そして出演下さったアーティストの皆様、本当にありがとうございました!!
下記は夫の日記よりレポートを転載します。
13日(土)、豊中の銭湯「延命湯」まで出かけた。
湯をつかいにではない。わざわざ豊中まで湯をつかいに行ったら、帰りに湯ざめしてしゃあない。
ではなくて、嫁さんと、豊中の音楽関係の方がスクラムを組んで打ったイベント「手塚治虫没後21年トーク&コンサート」を観に(聴きに)行ったのだ。
その会場が、ホールでもなければライブハウスでもなく、銭湯だったわけ。
銭湯でコンサート・・・最初はどんなもんかイメージが湧かなかった。
複雑怪奇な豊中の奥の院、迷子になりそうな下町の中に、延命湯は鎮座していた。

年季の入った下足箱にシューズを入れ、木札を抜き、入湯料ならぬライブチャージ500円を払い、男湯の脱衣場へ。
そこが会場。
因みに女湯の脱衣場は、出演アーティストの楽屋として使用。だから浦メは覗かなかった。
アホ!
既に先客が十数名、座布団敷いて思い思いに座っていた。
シートなどない。各自座布団持参なのだ。
実にアットホームなコンサートだ。
風呂場の真ん前にはキーボードとスタンドマイク。客席とムチャクチャ近いがな。
後方には「カフェコーナー」として缶ビール、牛乳瓶、コーヒー牛乳瓶、フルーツ牛乳瓶などが並んだ70年代テイスト満天の冷蔵庫が。
アットホームにも程があるぜ!
やがて「おかみさ~ん、時間ですよ~」という堺マチャアキの掛け声と共に(嘘)、コンサート開会。
嫁さんがMC。少し緊張しとるがな。

一発目は、アニソン専門にライブ活動をしているグループでボーカルを担当している、せろりあんさんが、本日はピンで手塚メドレーを歌われた。
リボンの騎士、ミクロイドS、海のトリトン、ワンサくんを披露。

続いて、知る人ぞ知る玩具プロデューサーにして食玩ブームの火付け役・安斎レオ氏による、手塚治虫トークショー。
実は浦メは、この日の演目の中で、安斎氏のトークが一番楽しかった。

アニメ「海のトリトン」が大好きで、手塚先生が作った作品と信じて疑わなかったり、今のようにヤフオクもまんだらけもなかったもんだから、アッチコッチの古本屋を訪ね歩いて手塚漫画を渉猟したりした、少年の日々・・・。
わかるなぁ!かつて浦メもそうだったもんなぁ。
手塚アニメでトリトンが一番好きと仰った時には、思わず安斎氏に駆け寄って頬ずりしたくなったよ。
ほんのひとかけらの理性が、それを押しとどめたけど。
1974年、梅田・阪急デパートでジャリ相手に行われた「手塚先生と絵を描こう」イベントのエピソードには腹かかえて笑った。
ジャリの中でたった一人、学生の安斎氏が参加し、豪快に浮きまくっていた事。
これは1975年NHK「ワン・ツー・ジャンプ!」に紙芝居のお爺さん役で出演した怪優・殿山泰司に匹敵する浮きっぷりであろう。
“手塚先生に質問”のコーナーでは、最前列で真っ先にハイッと手を挙げるも、手塚先生からも「ややこしい人とちゃうんか」と思われたのであろう、延々と無視され続けた事。
漸く最後の方で、手塚先生も気の毒になったのか当ててもらい、当時発売されていた(恐らく)日本最初のアニメ専門誌『季刊ファントーシュ』に掲載された手塚先生インタビューの「今度、<ある森の伝説>というアニメを作ろうと思っている」とのコメントに胸躍らせて、ジャリに取り囲まれた環境下で「先生、<ある森の伝説>はいつ出来上がるんですか?」と堂々と質問した事。

先生は苦笑いされながら、「あれを作るにはお金が3,000万ほどかかるんだよ」と仰られた事、etc.(虫プロ倒産の翌年だものなあ^^;)
更には垂涎モノのお宝が次々と披露され、浦メは口あんぐり。
場内のアチコチから羨望のドヨメキ。

即ち、
1974年にブラック・ジャックとサインを描いてもらったTシャツの現物(未着用)、松本零士のサイン色紙数種、水島新司のサイン(イラストは、ドカベンではなく水原勇気ってとこにニヤリとさせられたぜ)、サインをしない主義の横山光輝が特別にサインした三国志色紙、水木しげるのサイン、森次晃嗣(モロボシダン)のセブンイラスト+サイン、例の『季刊ファントーシュ』現物などなど。
ヒョエ~。









万雷の拍手のうちに、トークショーは終了。

続いて笑顔の実に可愛い純朴少女・のっちさんのライブ。
足を組んで、アコギを奏でながらのスタイルは、イルカかはたまた村治沙織か。
なによりニコニコッとした笑顔がベリーグーであった。なんとなく、銭湯に合ってるなぁ。


そしてトリはプロシンガーソングライター・芽亜利・Jさんのライブ。
さすがプロだけあって、「リボンのマーチ」ではお客も歌に参加させるなど、ツカミはOKだ。
歌唱力もバツグン。


なんでも神奈川県から今日の銭湯コンサートに来てくれて、冒頭に書いた、嫁さんとタッグを組んで下さった音楽関係の方が、それでは商売にならんからと、夜に中津のライブハウスでのギグを入れられたんだとか。
ありがたい話だ。

トリのライブが終わった頃、本日ステージのあいだ中、ずっと脱衣場向こうの風呂場で、ライブペイントのパフォーマンスを行ってくれた、嵯峨芸術大学の宇治茶さんの「手塚先生肖像画」が完成。
これまた場内オオーッとどよめき、拍手喝采。
真っ白なカンバスの状態から、たった2時間で見事な肖像画が出来上がった。
これがまた実にいい笑顔で「手塚先生が降臨したんじゃないか」なんて声も。
まさに「神、降臨」だ。

大トリは、出演アーティストや宇治茶さんも加わって、全員で「鉄腕アトム」の大合唱。
これは、紅白における蛍の光みたいなもんだ。
やっぱりこういう時にはアトムだ。定番ではあるが、気持ちいい。
本日の動員は、およそ50名。狭い脱衣場内が芋の子を洗うが如き状態。
浦メの知己の人で言うと、大阪からは、嫁さんの街歩き繋がりのお友達G氏やS氏、高校時代の友人Kちゃん夫妻、十代の手塚FC会員で、去年のファンクラブ大会では夜行バスで単身、大東京に乗り込んだ行動派Tちゃん、マイミクのいかぼんさんが足を運んで下さった。
名古屋からはマイミクにしてマンガマニア・ヘリトンボさんが駆けつけて下さった。
それ以外では、なんとはるばる神奈川から参加なすった人もいた。
芽亜利・Jさんの大ファンだとか。
みんな笑顔で銭湯をあとにする。
「ババンバ バンバンバン♪」と、全員集合のエンディングテーマでも流せば良かったな。
「歯ぁ磨いたか?」「宿題したか?」と帰りゆく人々に声かけるのだ。
「風呂入ったか?」とは聞かない。だって延命湯さんは、今日は銭湯の営業はお休みだから。「あした風呂行けよ」と声をかけよう。
しかし本日は、ライブの後の昂揚感がほんのりと残る、いいイベントであった。
どんな感情であっても、感情を持つ事は、常に、絶対に、正しいのだ。(平岡正明)
スタッフゆえに後処理をせにゃならん嫁さんを待ち、銭湯を出た頃には「洗い、髪が、芯まで冷え」はしなかった。
夕方に近づいて寒くなってきたが、「赤い、手ぬぐい、マフラーにし」なかった。
ご参加の皆様、そして出演下さったアーティストの皆様、本当にありがとうございました!!
下記は夫の日記よりレポートを転載します。
13日(土)、豊中の銭湯「延命湯」まで出かけた。
湯をつかいにではない。わざわざ豊中まで湯をつかいに行ったら、帰りに湯ざめしてしゃあない。
ではなくて、嫁さんと、豊中の音楽関係の方がスクラムを組んで打ったイベント「手塚治虫没後21年トーク&コンサート」を観に(聴きに)行ったのだ。
その会場が、ホールでもなければライブハウスでもなく、銭湯だったわけ。
銭湯でコンサート・・・最初はどんなもんかイメージが湧かなかった。
複雑怪奇な豊中の奥の院、迷子になりそうな下町の中に、延命湯は鎮座していた。

年季の入った下足箱にシューズを入れ、木札を抜き、入湯料ならぬライブチャージ500円を払い、男湯の脱衣場へ。
そこが会場。
因みに女湯の脱衣場は、出演アーティストの楽屋として使用。だから浦メは覗かなかった。
アホ!
既に先客が十数名、座布団敷いて思い思いに座っていた。
シートなどない。各自座布団持参なのだ。
実にアットホームなコンサートだ。
風呂場の真ん前にはキーボードとスタンドマイク。客席とムチャクチャ近いがな。
後方には「カフェコーナー」として缶ビール、牛乳瓶、コーヒー牛乳瓶、フルーツ牛乳瓶などが並んだ70年代テイスト満天の冷蔵庫が。
アットホームにも程があるぜ!
やがて「おかみさ~ん、時間ですよ~」という堺マチャアキの掛け声と共に(嘘)、コンサート開会。
嫁さんがMC。少し緊張しとるがな。

一発目は、アニソン専門にライブ活動をしているグループでボーカルを担当している、せろりあんさんが、本日はピンで手塚メドレーを歌われた。
リボンの騎士、ミクロイドS、海のトリトン、ワンサくんを披露。

続いて、知る人ぞ知る玩具プロデューサーにして食玩ブームの火付け役・安斎レオ氏による、手塚治虫トークショー。
実は浦メは、この日の演目の中で、安斎氏のトークが一番楽しかった。

アニメ「海のトリトン」が大好きで、手塚先生が作った作品と信じて疑わなかったり、今のようにヤフオクもまんだらけもなかったもんだから、アッチコッチの古本屋を訪ね歩いて手塚漫画を渉猟したりした、少年の日々・・・。
わかるなぁ!かつて浦メもそうだったもんなぁ。
手塚アニメでトリトンが一番好きと仰った時には、思わず安斎氏に駆け寄って頬ずりしたくなったよ。
ほんのひとかけらの理性が、それを押しとどめたけど。
1974年、梅田・阪急デパートでジャリ相手に行われた「手塚先生と絵を描こう」イベントのエピソードには腹かかえて笑った。
ジャリの中でたった一人、学生の安斎氏が参加し、豪快に浮きまくっていた事。
これは1975年NHK「ワン・ツー・ジャンプ!」に紙芝居のお爺さん役で出演した怪優・殿山泰司に匹敵する浮きっぷりであろう。
“手塚先生に質問”のコーナーでは、最前列で真っ先にハイッと手を挙げるも、手塚先生からも「ややこしい人とちゃうんか」と思われたのであろう、延々と無視され続けた事。
漸く最後の方で、手塚先生も気の毒になったのか当ててもらい、当時発売されていた(恐らく)日本最初のアニメ専門誌『季刊ファントーシュ』に掲載された手塚先生インタビューの「今度、<ある森の伝説>というアニメを作ろうと思っている」とのコメントに胸躍らせて、ジャリに取り囲まれた環境下で「先生、<ある森の伝説>はいつ出来上がるんですか?」と堂々と質問した事。

先生は苦笑いされながら、「あれを作るにはお金が3,000万ほどかかるんだよ」と仰られた事、etc.(虫プロ倒産の翌年だものなあ^^;)
更には垂涎モノのお宝が次々と披露され、浦メは口あんぐり。
場内のアチコチから羨望のドヨメキ。

即ち、
1974年にブラック・ジャックとサインを描いてもらったTシャツの現物(未着用)、松本零士のサイン色紙数種、水島新司のサイン(イラストは、ドカベンではなく水原勇気ってとこにニヤリとさせられたぜ)、サインをしない主義の横山光輝が特別にサインした三国志色紙、水木しげるのサイン、森次晃嗣(モロボシダン)のセブンイラスト+サイン、例の『季刊ファントーシュ』現物などなど。
ヒョエ~。









万雷の拍手のうちに、トークショーは終了。

続いて笑顔の実に可愛い純朴少女・のっちさんのライブ。
足を組んで、アコギを奏でながらのスタイルは、イルカかはたまた村治沙織か。
なによりニコニコッとした笑顔がベリーグーであった。なんとなく、銭湯に合ってるなぁ。


そしてトリはプロシンガーソングライター・芽亜利・Jさんのライブ。
さすがプロだけあって、「リボンのマーチ」ではお客も歌に参加させるなど、ツカミはOKだ。
歌唱力もバツグン。


なんでも神奈川県から今日の銭湯コンサートに来てくれて、冒頭に書いた、嫁さんとタッグを組んで下さった音楽関係の方が、それでは商売にならんからと、夜に中津のライブハウスでのギグを入れられたんだとか。
ありがたい話だ。

トリのライブが終わった頃、本日ステージのあいだ中、ずっと脱衣場向こうの風呂場で、ライブペイントのパフォーマンスを行ってくれた、嵯峨芸術大学の宇治茶さんの「手塚先生肖像画」が完成。
これまた場内オオーッとどよめき、拍手喝采。
真っ白なカンバスの状態から、たった2時間で見事な肖像画が出来上がった。
これがまた実にいい笑顔で「手塚先生が降臨したんじゃないか」なんて声も。
まさに「神、降臨」だ。

大トリは、出演アーティストや宇治茶さんも加わって、全員で「鉄腕アトム」の大合唱。
これは、紅白における蛍の光みたいなもんだ。
やっぱりこういう時にはアトムだ。定番ではあるが、気持ちいい。
本日の動員は、およそ50名。狭い脱衣場内が芋の子を洗うが如き状態。
浦メの知己の人で言うと、大阪からは、嫁さんの街歩き繋がりのお友達G氏やS氏、高校時代の友人Kちゃん夫妻、十代の手塚FC会員で、去年のファンクラブ大会では夜行バスで単身、大東京に乗り込んだ行動派Tちゃん、マイミクのいかぼんさんが足を運んで下さった。
名古屋からはマイミクにしてマンガマニア・ヘリトンボさんが駆けつけて下さった。
それ以外では、なんとはるばる神奈川から参加なすった人もいた。
芽亜利・Jさんの大ファンだとか。
みんな笑顔で銭湯をあとにする。
「ババンバ バンバンバン♪」と、全員集合のエンディングテーマでも流せば良かったな。
「歯ぁ磨いたか?」「宿題したか?」と帰りゆく人々に声かけるのだ。
「風呂入ったか?」とは聞かない。だって延命湯さんは、今日は銭湯の営業はお休みだから。「あした風呂行けよ」と声をかけよう。
しかし本日は、ライブの後の昂揚感がほんのりと残る、いいイベントであった。
どんな感情であっても、感情を持つ事は、常に、絶対に、正しいのだ。(平岡正明)
スタッフゆえに後処理をせにゃならん嫁さんを待ち、銭湯を出た頃には「洗い、髪が、芯まで冷え」はしなかった。
夕方に近づいて寒くなってきたが、「赤い、手ぬぐい、マフラーにし」なかった。
2010.02.13
2/13「Earth Dreaming~ガラスの地球を救え」のゲストは松谷孝征社長
先週に引き続き、手塚るみ子さんがパーソナリティを務めるABCラジオ「Earth Dreaming~ガラスの地球を救え」のゲスト、今週も手塚プロダクションの松谷孝征社長です。
お聞きのがしなく!
放送日2月13日(土)午後10時~10時半
ABCラジオ(1008kh)
http://asahi.co.jp/50th/story/1002a.html
お聞きのがしなく!
放送日2月13日(土)午後10時~10時半
ABCラジオ(1008kh)
http://asahi.co.jp/50th/story/1002a.html
2010.02.05
NHK「美の壺」で「百貨店」特集
今日のNHK「美の壺」のテーマは百貨店。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズの名作、心斎橋大丸の華麗な姿も映りますよ!必見です☆

美の壺「百貨店」
チャンネル :教育/デジタル教育1
放送日 :2010年 2月 5日(金)
放送時間 :午後10:00~午後10:25(25分)
百貨店が今や文化財となった! 2009年、東京・日本橋にある高島屋が国の重要文化財に指定されるなど、大正から昭和初期に建てられた百貨店の美術的価値が見直されている。豪華な建物やきらびやかな装飾、季節を彩るショーウインドーなど、至るところに美が満載。「玄関にモダン都市の顔」「ワンダーランドへいざなう多国籍装飾」「窓越しに楽しむ季節の物語」の3つのツボから、買い物も楽しくなる百貨店の歩き方を紹介する。
【再放送】
チャンネル :教育/デジタル教育1
放送日 :2010年 2月 8日(月)
放送時間 :午前0:15~午前0:40(25分)
チャンネル :BS2
放送日 :2010年 2月 9日(火)
放送時間 :午後4:00~午後4:25(25分)
チャンネル :BShi
放送日 :2010年 2月 12日(金)
放送時間 :午前7:00~午前7:25(25分)



ウィリアム・メレル・ヴォーリズの名作、心斎橋大丸の華麗な姿も映りますよ!必見です☆

美の壺「百貨店」
チャンネル :教育/デジタル教育1
放送日 :2010年 2月 5日(金)
放送時間 :午後10:00~午後10:25(25分)
百貨店が今や文化財となった! 2009年、東京・日本橋にある高島屋が国の重要文化財に指定されるなど、大正から昭和初期に建てられた百貨店の美術的価値が見直されている。豪華な建物やきらびやかな装飾、季節を彩るショーウインドーなど、至るところに美が満載。「玄関にモダン都市の顔」「ワンダーランドへいざなう多国籍装飾」「窓越しに楽しむ季節の物語」の3つのツボから、買い物も楽しくなる百貨店の歩き方を紹介する。
【再放送】
チャンネル :教育/デジタル教育1
放送日 :2010年 2月 8日(月)
放送時間 :午前0:15~午前0:40(25分)
チャンネル :BS2
放送日 :2010年 2月 9日(火)
放送時間 :午後4:00~午後4:25(25分)
チャンネル :BShi
放送日 :2010年 2月 12日(金)
放送時間 :午前7:00~午前7:25(25分)



2010.02.03
長田の町にガオー♪

神戸市長田区のKOBE鉄人プロジェクトを見に行ってきました。
実は巨大な鉄人よりも私のお目当ては、『三国志』スタンプラリー。
中学2年の時、横山光輝氏の『三国志』全60巻を一気読みしました。
長田に巨大鉄人ができる前から『三国志』や横山光輝マンガの展示などを行っているというのは聞いてはいたのですが、「行こう!」と思い立った理由はスタンプラリーが毎週日曜日に行われていて、2月7日(日)までという情報を知ったからです。



JR新長田駅からまずは、鉄人28号モニュメントのある若松公園へ。
う~ん、やっぱりデカイ!大迫力!
やっぱり最近巨大ブームだからとにかくデカイものは受けるなあ。


さて、受付でスタンプラリーの台紙をもらって商店街へ。
台紙とともに、今日のスタンプポイントの番号を渡されました。
最初そのシステムの意味ががどうもよく解らなかったのですが、どうやら旗に描かれた『三国志』キャラの下にふってある番号らしい…。

その番号が…24番 韓遂、51番 荀或、89番 陳宮、116番 陸遜、122番 劉備
ええっ!?128枚の旗があるってこと!?それも全部1枚1枚違うキャラで!?どんだけ金かかってんねん!(そっちかい!笑)
それにしても目的の旗と旗の間が長いこと長いこと…結局番号順に廻ろうと思うと、大正商店街、六間道商店街、本町筋商店街、丸五市場、西神戸センター街の全部をまわらないといけないのです。
なるほど、こうやって長田の町にとにかく人を呼び込んで、お金を落とさせる町おこし戦略ってわけね。いや~うまいことできてるわぁ、ホンマ脱帽。
▼関羽

▼張飛

▼「泣いて馬謖を斬る」の語源になった馬謖

▼劉備の恋人・芙蓉姫

▼劉備でスタンプラリー完成


さて、個人的には鉄人28号モニュメントより気になっていた三国志石像です。
石像は関羽、周瑜、諸葛孔明、劉備の4体で、劉備が一番新しく出来たようです。
これからどんどん新たに増えていくのかな!?








大正筋商店街の南端の「KOBE鉄人三国志ギャラリー」には横山光輝氏の『三国志』だけでなく、他の作家の漫画、アニメ、ドラマ、人形劇などの展示の他、横山光輝氏の代表作、年表などの紹介パネル、『鉄人28号』の玩具などが展示されていました。グッズ売り場には、神戸三国志伽哩(カレー)や鉄人カレー、『三国志』ポストカード、『横山光輝プレミアムマガジン』など垂涎モノのグッズが。六間道商店街にも空き店舗を利用して三国志館や三国志パネル展示も。







六間道商店街には、「三国志なりきり隊」の皆さんが。
どうみても商店街の店主の方たちなんですが、私がカメラを向けると「一緒に写真を撮りましょう」と。

こんなにも街が一体となって盛りあがれるなんて、ホンマ感動!><
それに比べて岡町は…はぁ(溜息^^;)
はっきり言って雲泥の差です。
なんやろうねえ、やっぱり震災を受けて何が何でも町ぐるみでこの苦境を乗り越えなければならない、という連帯感がここまでの町のパワーになっているんやろうなあ。
危機感やハングリー精神が町興しに真剣に取り組むパワーになるんやなあ。
特にすごく横山光輝ファンというわけでもないのに、思い切り買い物してしまい、見事に町おこし戦略にはめられた感(笑)。
しっかり長田の町にお金を落として充実した気持ちで帰ってきました。
また秋の三国志祭にはぜひ行きたいなあ。


▼入らなかったけど、古い銭湯発見してますますテンションがあがりました♪

さて、下記はれいによって夫の日記からコピペ。
嫁さんが行きたい!と叫んだので、雨のしょぼ降る寒い中、神戸は長田区まで行ってきた。
なにしに?
JR新長田駅の近所にそそり立つ「鉄人28号」を間近で見に行く&三国志スタンプラリーに参加するためだ。
鉄人は、以前舞子からの帰りの車中から、その後ろ姿を見て以来だが、間近で見上げると相当の迫力だった。
これは童たちにはインパクト大やろうなぁ。幼き日、太陽の塔に恐れ慄いた浦メと同様に、強烈に脳裏に焼き付ける子らが続出ではなかろうか。
尤もこれは、鉄人だからこそ、この迫力なんだろう。
これがもし鉄人ではなく、金田正太郎クンだったらどうだろう?
まさしく正真正銘の「ビッグボーイ」だ。
受付でラリーの台紙をもらい、レッツゴー。
長田の商店街の両サイドには、三国志のキャラクターをあしらったフラッグがダダダーッと並んでいた。
フラッグにはナンバリングがふられており、指定されたナンバーのフラッグの下に、スタンプ台が設置されていた。
長田の商店街を歩きながら、順番に押していくという趣向。
それにしても、生まれて初めて歩く長田商店街は広かった。なんせ指定されたフラッグとフラッグの距離が長くて長くて・・・。
これだけフラッグとフラッグの距離が長いと、疲れて途中の喫茶店で休んだり、お昼時ならメシでも食ってしまおうってもんだ。
あ、成る程!それで長田区にお金を落とさせるんだ。
だが、メインの通りは確かに賑わってはいたが、少し横の筋に入ると、日曜日だというのにやはりシャッターが・・・。
震災の影はまだ続いているのだ。
だからこれをどげんかせんとイカン、と今回の鉄人プロジェクトが沸き起こったのだ。
スタンプを押しつつ、三国志キャラに扮した商店街自治会のオジサンたちと記念撮影。
諸葛孔明は、それらしい人が扮していた。
うぅむ、ヤル気満々ではないか。
商店街の途中には、空き店舗を改装したのだろうか、三国志ギャラリーもあり、その商品充実度には目を見張るものがあった。
「鉄人カレー」とか「三国志カレー」なんてものから孔明のアイテム・扇子まで売られていた。果ては『魏志倭人伝』に登場する金印まで売られていたのには笑った。そりゃまあ、魏は、あの曹操の魏だけどさ。
それと改めて感心したのは、三国志のキャラクターって、これだけ仰山いたのか、という事。
どうも昔読んで、みんな同じ顔に見えたもんだから。
みんな同じ顔やから、例えば髭のあるなしで違いを判断せにゃならんがな、なんてギャグにしてたもんだから。
晩年は、どことなく松本清張を彷彿とさせた横山光輝は偉大なり。
浦メの傍らで嫁さんは、街全体がひとつになって動いている事に、いたく感激していた。
今、嫁さんが関わっている豊中市岡町の「手塚治虫生誕地をアピールした町興し」と、この長田区を比較して、その差の雲泥なるに興奮しておった。
キャラのフラッグなら、手塚も負けてはおらん。
スターシステムがあるから、それこそ無尽蔵だ。
鉄人に比肩する巨体キャラならば、やはりマグマ大使だろう。あ、でも鉄人と比べてメジャーさに欠けるか。だが「偉大なるゼオ」に比べればかなりメジャーだぜ・・・って、そういう問題ではないか。
やっぱりアトムなのかなぁ。しかしアトムは小さいから可愛らしいのであって、長田区の鉄人並みに巨大化させてもな~んか違和感があるよな。
ではリボンの騎士・サファイヤはどうだ?それこそ巨大フジ隊員やがな。
ましてやサファイヤ姫の股下をくぐるのは・・・ヒヒヒヒ。
なに想像しとんねん、このアホ!
ええい、こうなればヒョウタンツギだ。
岡町の駅舎をヒョウタンツギにしてしまうのだ。
阪急宝塚線の先頭車両は「女性専用」ならぬ「家族連れ専用」とするのだ。
服部を越え、曽根を越えたら、目の前にヒョウタンツギが待ち構えているのだ。
でもって、駅に到着する寸前に、スカーッと鼻から蒸気を噴くのだ。
子供たちは大喜びだ。
でも運転士さんは、前が見えなくなって焦るのだ。
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