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片山雅博氏サイン1

手塚るみ子さんのツイッターで知りました。

多摩美大教授でアニメ作家でもある片山雅博さんが2月12日(土)にお亡くなりになったそうです。

手塚治虫ファン大会2006の司会や、宝塚での手塚治虫トークイベントなどで何度も面白いトークを聞いていました。
「手塚ファンマガジン」の連載「虫のイイお話」は毎回楽しみにしておりました。
手塚治虫記念館でイラスト色紙を描いていただいたこともあります。
画像は1999年に宝塚ソリオホールで行われたトークイベントの際描いていただいた色紙です。
藤子不二雄A先生と松谷孝征社長をゲストにお迎えし、片山雅博さんがパネリストとして出演されていました。

この後、手塚治虫記念館まで藤子A先生、松谷社長を手塚ファンみんなで追っかけて行って、片山雅博さんを囲んで記念写真を撮ったことをよく憶えています。


片山雅博さんはリアルな手塚先生像の語り部だったと思います。
そして手塚漫画の伝道師のような方でした。
享年56歳。
まさか手塚先生よりも若くして亡くなられるとは…。
神様は不公平だとかねがね思います。
手塚先生の語り部がまた一人…。
ショックでたまりません(;-;)
片山さん、大好きな手塚先生のもとに早くに会いにいってしまいましたね。。。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

あまり情報が無いので、いくつか関連記事へのリンクを貼っておきます。

http://www.jaa.gr.jp/modules/news/photo.php?lid=168&cid=1
http://ceron.jp/url/www.animeanime.biz/all/112131/
http://www.anido.com/index-j.html
http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/news.php?tbl=information&id=76




下記は夫の日記より。

片山雅博さんを悼む

仕事中、嫁さんからメール。
なんじゃらほいと帰途に開いてみると、なんと片山雅博さんが去る12日にお亡くなりになっていたという。
なんたる事だ!

片山雅博・・・熱烈なる手塚ニアンにしてアニメ作家にして多摩美の先生。
ファンクラブ会誌での名調子に酔わされ、浦メの文体も少なからず影響を受けている。

復活2回目だったかのファン大会でも、名文と寸分変わらぬ饒舌っぷりに、まるでズージャを聴いてるかの如くスウィングしたものだ。

享年56。
若い。余りにも若い。

今頃は、天国で手塚先生から「火の鳥・完結編」を見せてもらって狂喜乱舞されてるのだろうか???

謹んでご冥福をお祈りしたい。合掌。
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手塚ファンの友人・金沢みやおさんからレポート頂きましたので転載させていただきます。

手塚治虫を語る会@豊中(金沢みやおさんのレポート)

去る2月6日。手塚先生の命日(2月9日)を前にして、生誕の地、豊中で開かれたトークイベントに参加。主宰はマイミクの、のりみさんと夫君の浦さんだ。

地元の文化財「原田城跡 旧羽室家住宅」を会場に、30名の手塚ファンや、先生にご縁の方々が集まった。

イベントは、浦さんの軽妙な司会でスタートし、まずはのりみさんから定番の手塚ゆかりの地紹介(今回は、地元指向で小学校、中学校時代を中心に年代順で)。

メインゲストは、手塚先生の北野中学時代の同級生、岡原進氏である。同級生であるから82歳であられるが、矍鑠たるもので1時間以上を立ったままで話し続けられた。

さて、氏は「巷間伝えられる誤った手塚像を正す!」事に力を入れておられた。いじめられっ子だった、地獄の修練所でひどい目にあった、空襲の日に火の見やぐらで見張りをさせられたなどは、ウソとは言わぬまでも手塚先生の演出・創作が入っている、とおっしゃる。

書籍類を示されて・・・

手塚書籍


『ガラスの地球を救え』はいけません、ウソばっかり(場内笑い)。『手塚治虫少年の実像』が実相です。『朝日ジャーナル別冊 手塚治虫の世界』は寄せられた大御所先生方のカラー追悼イラストと合わせて実に良い。古本屋で見かけたら即座に購入されるように、と推薦された。全て持っていた私もなかなか感心なヤツであるw。

閉会後、私も直接岡原氏にお尋ねしてみた。
先生のエッセイによると、中学にはバントウとかバンカラと呼ばれる乱暴者(いわゆる番長ですな)が居た事になっており、当然これが『ゴッドファーザーの息子』のバンカラのモデルであろうと思っていたが真相は?。

氏のお答え(趣旨)。それもありえません。北野中学には当時インテリ層や富裕層の子弟が集まっており、不良っぽいグループはありませんでした。とのお話であった。・・・うむむ、またしても手塚先生に一杯くわされた!w。バンカラと火の見やぐらは結構本気にしていたのだがなあ・・・。うーむ。真相は一体・・・。

真相といえば一つお尋ねするのを忘れた。『ゴッドファーザーの息子』冒頭一コマ目に、当時の阪急十三駅とみられる鳥瞰の絵がある(北野中学は十三にあった)。そこにただ一箇所だけ手塚先生の描き文字で「八幡荘」と屋号がある。

当時の駅前に実際にそんな下宿?、マージャン屋?があったのか?、手塚先生と何らかの縁があったのかどうか?。次の機会があれば氏にお尋ねしてみよう。

どこまで真実でどこからが伝説なのか。伝説のままでも面白いけれども、ファンとしては、実際のところをやはり知りたいものだ。

伝説といえば、のりみさんが話題にした24時間TVアニメ『バンダーブック』は、放映中にまだ最後の仕上げを行っていたという件。これも各種言われているが、どれが本当かな?w。
「治虫忌」(じちゅうき)…手塚治虫先生の命日のことをこう呼ぶそうです。
「手塚治虫を語る会」って実にそのまんまなタイトルで最後まであまり良いアイデアが思いつかなかったのです。
「命日」って言葉を入れると暗くなるしあれこれ悩んであまり良い結論が出なかったのですが、夫がつけた今回のレポートのタイトルは
「治虫忌を偲び、豊中に集う」

ええタイトルやわぁ・・・。
夫の日記のタイトル、なんかそのまんま次の手塚イベントに使えないかしら?なんて思ったけど、「治虫忌」なんてそれこそ手塚ファンでないと読めないし解らないですよね。

手塚治虫を語る会

「治虫忌を偲び、豊中に集う」

2月9日は、手塚治虫先生のご命日である。
1989年のその日、浦メは高校3年生の冬であり、確か大学入試には通っていたかと記憶しているが、とにかく朝刊の第一面を見てゲッ!と吃驚したものだ。
次に吃驚したのは、記事中に「享年60歳」とあった事だった。ムチャクチャ若いやんけ!と二重にショックだった。
それで憑かれたように講談社版手塚治虫全集を買いまくり、東京と京都の手塚治虫ファンクラブに入会し、会誌を通して今の嫁さんと知り合い、尻に敷かれて現在に至っている。

その嫁さんが、またまた手塚イベントを企画した。
手塚先生が2歳~5歳まで過ごされた豊中市曽根に、原田城という戦国時代の城の址があり、そこにある住友鉱山重役の旧居が登録文化財として保存されている。今回はそこの応接室をお借りしてのトークイベント。

手塚先生の北野高校時代の同級生にしてカメラマン・岡原進さんをメインゲストに迎え、北野時代の思い出と、雑誌の仕事で虫プロを取材した時の思い出などを語ってもらうというもの。

浦メは、その前日まで一週間山陰地方をウロチョロして、疲れきって帰宅するなり
「明日の豊中のイベントの司会して!」
と嫁さんから簡易な台本を突き付けられ、拒否すれば家から追い出されるから中村主水よろしく「ハイ・・・」と消え入りそうな声で引き受けたのであった。

とよなか・歴史と文化の会スタッフの方のご挨拶でスタート。
会場は30人定員ぴったり埋まり、大入り満員。
進学イベントの仕事をやってる関係上、人が集まるとホンマに安堵するわぁ。

台本には「本日は寒い中ようこそ」なんてト書きがあったんだが、この日は小春日和の一歩手前といった気温。だから台本なんざ無視してアドリブをかましてやった。
「台本にはこう書いてるんですけど、今日は温かいですよね。小春日和ということで、これも手塚先生のおかげかと思います。」
で、喋ったんだけれども、これは昔、豊中でやった規模の大きい手塚トークイベントでも痛感したんやけど、終わってから
「ああ、もうちょっとこう言えば良かった」と反省しきりであった。

手塚先生の戒名「伯藝院殿覚圓蟲聖大居士(はくげいいんでんかくえんじゅしょうだいこじ)」も言う予定だったのだが、飛んでもうた。
やはり儂も緊張しとったんやろか。
嫁さんは「上出来やった」と褒めてくれたが・・・

浦メの前説ショーを経て、嫁さんが前座として、阪急沿線における手塚治虫ゆかりの地をパワーポイントで紹介。
言わばビートルズ武道館公演の前座を務めたドリフみたいなもんだ。

嫁さんの喋りは、少々トチったものの、全体には流暢であった。
浦メはそばで聞いていて、「大きく育ったものよのぉ・・・」と遠い目になった。
しかし、時々なんの説明もなく「バンダーブック」とか「ガチャボイ頭」なんて手塚ファンでないと知らない手塚用語を、周知の知識の如く言うもんだから、フォローの合いの手を入れてやった。だから途中から夫婦対談めいてきたのだった。

手塚治虫を語る会

前座がなんとか無事終わり、いよいよ岡原さんのトーク。
この方は、同級生だから当然手塚先生と同年齢で、御歳82になられる。しかし相変わらずお達者だ。なんせトークの間、ずーっと立ちっぱなしだった。
そして相変わらずお話が上手だ。過去に2回(北野高校のOBを呼んで来てのトークイベントも含めると3回)聞いてるんで、話の内容は既知のものであったけど、話の上手さに惹き込まれる。
別段、学校の先生やってらしたわけでもないのに、司会業やってらしたわけでもないのに。浦メも嫁さんも太刀打ちでけへん。

北野の美術部時代の手塚先生に関するエピソード(後輩たちのリクエストに応じて教師の似顔絵を次々と描いて喝采を浴びた話、軍事教練寮で夜、寝てる友人たちの寝姿をマンガにスケッチして貼り出したりした話、等々)~岡原さんご自身の軍隊経験も交えられ、単に手塚治虫語りに留まらないリアルな戦争体験語りにもなっていた。
こういう経験した人から直接お聞きできるというのは、本を読むのとはまた違った“重み”がある。だから貴重なのだ。

後年、手塚先生が虫プロを作った際に、岡原さんが訪問し「ある街角の物語」を見せてもらい感動した話や、その後、雑誌「教育大阪」の取材で撮影された写真を披露された。また、ラストで語られた手塚先生が叙勲を断られたエピソードなど、何度聞いてもええ話やわぁ。

万雷の拍手の内に、岡原さんのお話は終了。続いてお客さんの中で、手塚先生に関する“お宝”をお持ちの方をご紹介するコーナーへと移った。

事前に、手塚ファンクラブ会員でもあるY田さんにサイン本を持って来てもらう話ができていて、披露していただいた。1986年に尼崎市で行われた「手塚治虫ワールド」で行われたサイン会で『陽だまりの樹』にサインをいただいたそうだが、手塚先生は一人一人に「手塚治虫」というサインだけでなく、イラストを描いて下さったそうだ。Y田さんがお持ちだったのは『陽だまりの樹』だったので、手塚先生ご自身のイラストが描かれた。

手塚治虫を語る会22

それから、初期キャラクターの色紙(ヒゲオヤジ、ケンイチくん、ミイちゃん)が紹介された。これは、現在、手塚治虫記念館に寄贈・展示されている。

それ以外にも手塚先生の1歳上のご婦人が、1969年の池田附属小学校の同窓会で先生に手帳の裏に万年筆で描いてもらったイラスト入りサインを披露して下さった。アトムとウランの二人が抱き合って踊っているもので、実に温かい“いい画”であった。一瞬、「羨ましい」と思った。

手塚治虫を語る会20


なんとか無事、成功。よかったよかった。

岡原さんはじめ、集まって下さったお客さんもそうだし、サイン本を持って来て下さったY田嬢、名古屋からわざわざ来て下さったマイミク・ヘリトンボさん、忙しい中なんとか都合つけて来て下さったマイミク・みやおさん、カメラ係を担ってくれた義弟くんに感謝感謝。

そういや岡原さんの話の中にも登場した「大和ハウス工業のミゼットハウス」、なんとこの会場敷地内にも展示されていて、最後に歴史と文化の会の方が紹介してくだすったんで、みんなで見物。
“小さな家”って意味で、まあ今で言うプレハブ小屋だ。
説明チラシに載ってた当時の宣伝スチール写真(ミゼットハウスの窓からモデルが顔を出して笑っている)に、岡原さんが「あ、これ俺が撮ったもんだよ」にビックリ。

いろんな意味で、貴重な一日であった。

ミゼットハウス

ミゼットハウス

【のりみのレポート】

「手塚治虫を語る会」開催しました!
2月9日は手塚治虫先生のご命日でした。
命日を前にした2月6日、手塚治虫生誕の地・豊中で「手塚治虫を語る会」を開催しました。
お越し下さった皆様、本当にありがとうございました!
30人の定員がほぼ満席。

手塚治虫を語る会1

手塚治虫を語る会2

手塚治虫を語る会3

会場となったのは曽根にある原田城跡・旧羽室家住宅。
手塚先生が2歳~5歳の幼少期に住んでいた曽根近辺で会場を探していた折に見つけたのがこの建物で、現在は豊中市が所有する登録有形文化財です。
この建物に私は一目惚れして会場に決定しました。
建物を管理する「とよなか・歴史と文化の会」の方にイベントの趣旨と私の思いをお伝えしたところ、その場でOKが取れ、日時場所が即決定。
そして、手塚先生の同級生で、なおかつご自身が取材した手塚先生の写真をお持ちのり岡原さんをゲストに、という思いはずっと抱いておりました。
手塚先生のことを尊敬し、語る方はたくさんおられます。
でも「先生」ではなく「手塚君」と同等の立場で語れるのは、同窓で学んだ方以外ありません。
手塚先生に直接関わった方のお話を伺い、声を引き出してそれを記録することが、私に課せられた使命だとすら思っております。
今回のイベントもそんな私の強い思いから実現に漕ぎ着けたイベントでした。

ゲストとお客さんが一緒になって語り合えるような距離間の近いイベントをやりたい。
昨年は豊中市南桜塚にある銭湯・延命湯で手塚ソングのコンサートをやりました。
それは、参加者のすそ野を拡げ、コアな手塚ファンではない方も音楽という切り口で楽しめるようなイベントをという意図がありました。
でも、私自身はコアな手塚ファンであるため、今度は手塚度の高いイベントをやりたい。
営利もからまず、時間制限にも縛られず、複数の人間が関わることによるトラブルも持ち込ませず、私の頭の中にあるイメージを具体化することをひたすら考えました。
2月という時期にこだわり、豊中という場所にこだわり、空間にまでこだわるのがのりみのイベントスタイル!
ここまでこだわるなら、手塚イベントとしても内容の濃いものを目指そうと思いました。

私の活動の原動力はただただ、手塚先生への愛に他なりません。
本当にただただ私の思いの深さから始めて、それに応えて下さったゲストの岡原進さん、そして会場に足を運んで下さった皆さんと手塚治虫ワールドを通して繋がることの喜びをひしひしと感じております。
手塚先生が亡くなられて22年も経つけれど、こうして生誕の地・豊中で手塚先生について語り合える。
私自身はリアルタイムを経験していない手塚ファンだけど、手塚先生をリアルに知っている方のお話を引き出し、それに呼応して客席からも手塚先生にまつわるお話が出てくる。
本当に私がイメージしたとおりの「手塚治虫について語る座談会」ができたと思います。

 
私が、こうしたイベントを手がけるきっかけとなったのが2003年4月5日に行った講演会「親友が語る手塚治虫の少年時代」でした。
「鉄腕アトム」誕生を前にし、空前のアトムフィーバーで世間が盛り上がったタイミングに行った講演会。
手塚治虫先生の弟の手塚浩さん、妹の宇都美奈子さん、池田附属小学校時代の同級生・大森俊祐さんに手塚治虫の実像について語っていただいた3時間半の講演会。
180人もの人が詰めかけ、立ち見続出。 
もう、あんな奇跡のようなイベントは二度とできないだろうけど、でもあの奇跡があったからこそ、今の私の活動に繋がっているのです。

手塚度の高いイベントを自分の手で一から作り上げ、そしてそれが成功することの充実感、達成感。
これがあるからイベントってやめられない。
やみつきになります!
自分の思い描いたイメージ通りのイベントが成功するとたまらなく嬉しくて、だからこそまた次もやりたい!って思うんですよね。

▼夫・田浦誠治の司会でスタート。

手塚治虫を語る会4

▼「阪急沿線における手塚治虫の足跡」と題し、豊中、宝塚、池田など手塚治虫ゆかりの地を紹介。

手塚治虫を語る会5

▼「豊中市立少年自然の家・わっぱる」にある手塚先生の直筆画に感動。今度はぜひ皆さんで手塚遠足に行きましょう!

手塚治虫を語る会6

▼北野中学時代の同級生・岡原進さんによる講演。

手塚治虫を語る会7

手塚治虫を語る会8

手塚治虫を語る会9

▼美術部の岡島吉郎先生は戦前はかなり厳しい先生だったとか。

手塚治虫を語る会10

手塚治虫を語る会11

手塚治虫を語る会12

▼カメラマンの岡原さんが「教育大阪」の取材で撮影された手塚先生の写真もたくさん披露されました。

手塚治虫を語る会18

手塚治虫を語る会15

▼久々に同級生に会ったにも関わらずなかなか時間が取れなかったお詫びにと、手塚先生は岡原さんにアトムの色紙を描かれました。
筆で描かれ、彩色されているアトムのイラスト色紙はなかなか無いですよね。

手塚治虫を語る会16

手塚治虫を語る会17

▼池田附属小学校で手塚先生より1年先輩の豊田さんがお持ち下さったサイン。
アトムとウランの絵を手帳に描いてもらったそうです。

手塚治虫を語る会19

手塚治虫を語る会20

▼ファンクラブ会員のY田さんがお持ち下さった手塚先生の直筆サイン。1986年尼崎市で行われた「手塚治虫ワールド」のサイン会で『陽だまりの樹』を購入し、サインしていただいたそうです。

手塚治虫を語る会22
2011.02.11 雪の大阪
雪の大阪1

雪の大阪2

雪の大阪3

雪の大阪4

雪の大阪5

雪の大阪6

雪の大阪7

雪の大阪8

雪の大阪9

雪の大阪10

久々に雪が積もりました!
「雪の大阪」って有名な日本画のタイトルですが、撮影場所は家の近所です(笑)。