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2017.10.28
「ザ・淀川」2017年11月号

「ザ・淀川」2017年11月号に、10月7日の六稜トークリレーの記事を掲載いただきました。告知記事と講演後の記事の両方を連続で月刊誌に載せていただくのは初めてです。編集長の乃美夏絵さんからとても嬉しいメッセージをいただきました。
「六稜トーク、本当にお疲れさまでございました。本当に内容が充実した有意義な講演会でした。幅広い年代の聴客を惹きつけるのは至難の技だと思います。改めて、これまで田浦さんがされてきた、研究成果の凄さを感じていました。
いっそう“田浦ファン度”が増しました。
『紙の砦』、最後まで、胸に響くものがありました。この胸に残ったものを大事にしたいと思いました。ありがとうございました。」
なんだか『ガラスの仮面』でいう紫のバラをいただいたような心境。「あなたのファンです」という言葉を励みにこれからも頑張ろうと思います。
誰でも気軽に学べる「六稜トーク」
10月7日、北野高校・六稜会館で「六稜トークリレー」が開かれました。毎月原則第1土曜日に開催されるこの催しは、北野高校の卒業生を講師に迎える生涯学習系プログラム。多様なテーマで企画され、豊富な話題に、常連になる方も。「学校の中なので入りにくいと思われるかもしれませんが、気軽に足を運んでもらえたら」と世話人の谷卓司さん。
この日の講師は田浦紀子さん。「卒業生でない講師」は2例目だとか。田浦さんは「旧制北野中学校(現北野高校)を卒業した漫画家・手塚治虫さん」 の大ファンで、研究成果が新聞や雑誌等でも取り上げられているほど。今春出版された本『親友が語る手塚治虫の少年時代』をもとに、手塚治虫さんのルーツにふれながら、北野中学校時代の体験が基となっている『ゴッドファーザーの息子』や、自伝的漫画として有名な『紙の砦』といった、淀川区にいて身近に感じる作品の数々を解説してくれました。
また、田浦さんは北野中学校時代だけでなく、阪神間に多くある「手塚治虫ゆかりの地」を訪ね、調べることをライフワークとしており、後半は、主に中之島を中心に、手塚治虫さんが子どもの頃に電気科学館のプラネタリウムに衝撃を受け、通いつめた体験が後のSF作品に強く影響していることや、曾祖父・手塚良庵が入門した適塾が描かれている『陽だまりの樹』、大阪大学付属医学専門部時代に通った阪大病院が描かれた『アドルフに告ぐ』などの作品を挙げながら、取材で得た実際のエピソードを交えて紹介してくれました。
「これらのゆかりの地を巡ることができる“虫マップ”を20年前から作り、今はスマホがあれば追体験できるように改良しています。中津・十三・梅田・中之島…他のエリアも充実させていきたい」と田浦さん。

同級生の金津博直さんも登壇。勤労動員時代、手塚治虫さんが倉庫に隠れて描いてくれたという金津さんの絵を披露しながら当時の過酷な様子を語ってくれました。

この日は、手塚治虫さんの直筆イラストや学生時代の部誌『昆蟲の世界』などを展示する地下ギャラリーが特別公開された。
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2017.10.27
「あたたかい心は幸せのために」アップリカ創業者・葛西健蔵氏の言葉

アップリカ創業者の葛西健蔵氏のご葬儀で配布された会葬御礼に挟まれていた氏のメッセージ。大変感銘を受けたのでご紹介したいと思います。
ご存じの方も多いと思いますが、葛西健蔵氏は、手塚プロダクションの相談役でした。虫プロ倒産時に債務整理にあたり、手塚先生の窮地を救った人物として知られています。
上に立つ人はこうでなければ、と思うと同時に自分にとってもこれからの「人生の教訓」としていつまでも心にとどめたい言葉だと思いました。
“あたたかい心は幸せのために”
人間の生涯の幸せの意味は、
あたたかい心を持ち周囲の人を大切にし
自らの分野を通じて人のためにつくし、
一滴の水、一つのものを大切にすることだと私たちは考えています。
学歴・能力に優れていること、
お金・権力・名誉を多く持っていることは、
幸せのほんの一部にすぎず、
自分のためのみのものであれば、
かえって不幸を招くこともあります。
幸せはあたたかい心を持ち、
周囲の人に大切にし
自らの分野を通じて人のためにつくし、
一つのものを大切にする心を持ち続ければ、
誰もがかなえられることです。
アップリカ創業者
アップリカ育児研究所 理事長
葛西健蔵
2017.10.25
アップリカ創業者・葛西健蔵氏のご葬儀に参列

アップリカ創業者・葛西健蔵氏の訃報が各誌報道で伝えられた。享年91歳。1973年の虫プロ商事、虫プロダクション倒産時に、手塚先生を債権者達から守り、漫画を描くことに専念させ「版権を借金のカタにしてはいけない」と自らも債権者でありながら、キャラクターの版権を一時的に引き受け、債権者から版権が濫用されることを防いだ「手塚治虫の恩人」と知られている。のちに、1979年から1980年に連載された『どついたれ』に描かれた葛城健二のモデルとなった。
その葛西健蔵氏の最後の姿を映したのが2016年2月に放送されたNHKの「ファミリーヒストリー」だった。既に話すことができなくなっていた葛西氏はディレクターの質問に筆談で応じた。
「手塚治虫はどんな人物だったか?」
「いだいなきじん」
「父親としてはどんな人だったか?」
「りっぱな人。あれだけ忙しいのにたまに食事していた。」
「子供と一緒にいたいと思われたということでしょうか?」


10月24日、大阪市住吉区のアップリケアで、葛西健蔵氏のご葬儀が営まれた。訃報を知ったのが23日の午後7時をまわっていたのでさすがに諦め、ご葬儀だけでもと思い参列した。さすがに立派な式で見た目ざっと300人くらいの弔問客がいただろうか。祭壇には「どついたれ」の絵が大きく飾られていた。読経の後、東京都知事、大阪市長、兵庫県知事などたくさんの弔電が読み上げられ、最後にNHK「ファミリーヒストリー」ディレクター・矢野哲治さんの弔電が読まれた。
「いつまでも教えを請いたい。手塚がそういった人。葛西健蔵さんありがとうございました。」
続いて、葬儀委員長である手塚プロダクション代表取締役社長・松谷孝征さんの弔辞。

「季節は秋になり富士山が初冠雪を迎えました。東京から向かう最中富士山を見たのですが、曇っていて雪が見えず残念でした。手塚治虫は早く亡くなりましたが、かくいう私も73歳と年寄りの部類に入ってきました。葛西理事長とお会いしたのは昭和48年ですから、45年近く前になります。先ほどNHKの方の話がありましたが、手塚治虫がどん底になった時期、三つ会社があるうちに二つが潰れ、債権者会議まで遠方から来てくださり、すごい人だなと思いました。葛西理事長の活動の中で「あたたかい心を育てる」運動というのがあり、「三歳までの子供が一番大切なんだ」と語っておられます。理事長もひ孫さんまでおられ、読経の最中でも大騒ぎ、理事長の血をひいてますよ。それから、人間のおしまいが大切なんだということで、アップリケアをおつくりになって、でもこれは自分のためにおつくりになったようですね。ものすごい生命力で「生に対する執着」を感じました。「米寿の会」では全然お元気でいらっしゃいましたが、奥様が先に亡くなられましたね。91歳で亡くなられてしまいましたが、我々に残した言葉や想いを引き継いでいかなければと思います。手塚治虫の『どついたれ』が完成しなくて残念だったのですが、葛西理事長の想いを引き継いでしっかりやっていきますので、どうぞゆっくりお休みになってください。手塚治虫と会ってお話ししてやってくだい。どうもありがとうございました。」
お焼香をして、献花して出棺までお見送り。
大正生まれの「手塚治虫の恩人」の死を見送って感じたことは「また、これで手塚治虫がひとつ歴史になった」ということだった。
私の「記憶を記録にとどめる」活動はほとんど時間との闘いだと感じる。
そして「できること」よりも「できないこと」のことのほうが圧倒的に多く、いくら掴んでも掴んでも指の間からこぼれ落ちていく砂のようなものだ。
せめてその時間に立ち会うことは、何かを変える一助となるのだろうか。




2017.10.19
11月4日(土)トキワ荘塾 対談「手塚治虫の少年時代」
11月4日(土曜日)に、トキワ荘跡地のオフィスビル4階(日本加除出版)で、「トキワ荘塾」を開催する運びとなりました。
『親友が語る手塚治虫の少年時代』の販促イベントとしての開催ですが、ゲストに、手塚先生のサブチーフアシスタント・伴俊男さん(『手塚治虫物語』著者)、黒川拓二さん(元「少年キング」編集長、『紙の砦』担当編集者)を迎え、対談イベントを企画しております。
伴さんの登壇の機会は、過去にほとんど無いケースなので、とても濃い話が聞けることを期待しております。
お二人の手塚先生関係者から「田浦さんのためなら」と言って下さったことが本当に嬉しかったです。
そして、やはりお二人とも「手塚先生のエピソードがいいよね」という話になりました。
万障お繰り合わせの上、ご参加ください。


第9回 トキワ荘塾 対談「手塚治虫の少年時代」のご案内
漫画家・手塚治虫の親族、同級生、仕事関係者の証言を集めた『親友が語る手塚治虫の少年時代』(田浦紀子・高坂史章 編著・和泉書院)が今春、出版されました。NPO法人 日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラムでは、編著者の田浦紀子氏をゲストにお迎えし、本書に登場する手塚治虫のサブ・チーフアシスタントの伴俊男氏、手塚治虫の少年時代を描いた自伝的漫画「紙の砦」の担当編集者・黒川拓二氏との対談イベントを開催いたします。
日時 2017年11月4日(土曜日)午後2時~4時
会場 トキワ荘跡地・日本加除出版(株) 本館4階ホール
(東京都豊島区南長崎3丁目16番6号)
出演者
田浦紀子(『親友が語る手塚治虫の少年時代』編著者)
伴俊男(『手塚治虫物語』著者)
黒川拓二(「少年キング」元編集長)
司会:小出幹雄(NPO法人 日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム理事)
内容
午後2時~4時
<第1部>「手塚治虫物語」対談・田浦紀子×伴俊男
<第2部>「紙の砦」対談・田浦紀子×黒川拓二
※第2部終了後、田浦紀子・高坂史章 編著『親友が語る手塚治虫の少年時代』サイン本販売会を行います。
午後4時~ 活性化交流会
参加費 無料、活性化交流会は1,000円(トキワ荘名物チューダーとつまみ付き)
定員 40名(申し込み先着順)
7.参加方法
氏名(必須)、所属団体、連絡先(電子メール))、活性化交流会に参加するかどうか、を
メール jimukyoku★tokiwasou.jp(★を@に変換)又はFAX(03-3953-5772)に送信してください。
主催 NPO法人 日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム
登壇者プロフィール
田浦紀子(たうら・のりこ)
1978年大阪市生まれ。京都精華大学卒業。在学時代に、弟の髙坂史章と共に阪神間の手塚治虫ゆかりの地を記した研究誌「虫マップ」を発表。改訂を重ねながら様々な媒体で発信し続ける。近年は大阪を中心に、手塚治虫ゆかりの地をめぐるイベントを主宰。手塚治虫の同級生たちの講演録をまとめた『親友が語る手塚治虫の少年時代』を今春に和泉書院より上梓。
伴俊男(ばん・としお)
1953年、京都市生まれ。1974年、手塚プロダクションに手塚治虫のアシスタントとして参加。雑誌漫画の制作現場のサブ・チーフを務める。「ブラック・ジャック」「三つ目がとおる」など多数の手塚漫画の制作に関わった。手塚没後は『アサヒグラフ』に伝記漫画「手塚治虫物語」を連載、1992年、朝日新聞社より刊行。
黒川拓二(くろかわ・たくじ)
1940年、広島県生まれ。1965年、早稲田大学政治経済学部卒業。1966年、少年画報社へ入社、「少年キング」漫画班に配属。1968年から「ノーマン」などで手塚番を約2年担当。
「ヤングコミック」の編集を経て「少年キング」の編集長。1974年夏の特別読み切り企画では手塚治虫漫画家生活30周年記念として「紙の砦」を担当。後に出版部に移り、2000年、定年退職。
小出幹雄(こいで・みきお)
1958年、トキワ荘のあった豊島区南長崎生まれ。1992年から家業の時計店・スエヒロ堂を継承し、商店会や町内会などの地域活動に参加。2008年よりトキワ荘記念碑設置実行委員会、トキワ荘通り協働プロジェクトの事務局長を歴任。現在、としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会の広報担当、NPO日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム理事。
『親友が語る手塚治虫の少年時代』の販促イベントとしての開催ですが、ゲストに、手塚先生のサブチーフアシスタント・伴俊男さん(『手塚治虫物語』著者)、黒川拓二さん(元「少年キング」編集長、『紙の砦』担当編集者)を迎え、対談イベントを企画しております。
伴さんの登壇の機会は、過去にほとんど無いケースなので、とても濃い話が聞けることを期待しております。
お二人の手塚先生関係者から「田浦さんのためなら」と言って下さったことが本当に嬉しかったです。
そして、やはりお二人とも「手塚先生のエピソードがいいよね」という話になりました。
万障お繰り合わせの上、ご参加ください。


第9回 トキワ荘塾 対談「手塚治虫の少年時代」のご案内
漫画家・手塚治虫の親族、同級生、仕事関係者の証言を集めた『親友が語る手塚治虫の少年時代』(田浦紀子・高坂史章 編著・和泉書院)が今春、出版されました。NPO法人 日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラムでは、編著者の田浦紀子氏をゲストにお迎えし、本書に登場する手塚治虫のサブ・チーフアシスタントの伴俊男氏、手塚治虫の少年時代を描いた自伝的漫画「紙の砦」の担当編集者・黒川拓二氏との対談イベントを開催いたします。
日時 2017年11月4日(土曜日)午後2時~4時
会場 トキワ荘跡地・日本加除出版(株) 本館4階ホール
(東京都豊島区南長崎3丁目16番6号)
出演者
田浦紀子(『親友が語る手塚治虫の少年時代』編著者)
伴俊男(『手塚治虫物語』著者)
黒川拓二(「少年キング」元編集長)
司会:小出幹雄(NPO法人 日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム理事)
内容
午後2時~4時
<第1部>「手塚治虫物語」対談・田浦紀子×伴俊男
<第2部>「紙の砦」対談・田浦紀子×黒川拓二
※第2部終了後、田浦紀子・高坂史章 編著『親友が語る手塚治虫の少年時代』サイン本販売会を行います。
午後4時~ 活性化交流会
参加費 無料、活性化交流会は1,000円(トキワ荘名物チューダーとつまみ付き)
定員 40名(申し込み先着順)
7.参加方法
氏名(必須)、所属団体、連絡先(電子メール))、活性化交流会に参加するかどうか、を
メール jimukyoku★tokiwasou.jp(★を@に変換)又はFAX(03-3953-5772)に送信してください。
主催 NPO法人 日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム
登壇者プロフィール
田浦紀子(たうら・のりこ)
1978年大阪市生まれ。京都精華大学卒業。在学時代に、弟の髙坂史章と共に阪神間の手塚治虫ゆかりの地を記した研究誌「虫マップ」を発表。改訂を重ねながら様々な媒体で発信し続ける。近年は大阪を中心に、手塚治虫ゆかりの地をめぐるイベントを主宰。手塚治虫の同級生たちの講演録をまとめた『親友が語る手塚治虫の少年時代』を今春に和泉書院より上梓。
伴俊男(ばん・としお)
1953年、京都市生まれ。1974年、手塚プロダクションに手塚治虫のアシスタントとして参加。雑誌漫画の制作現場のサブ・チーフを務める。「ブラック・ジャック」「三つ目がとおる」など多数の手塚漫画の制作に関わった。手塚没後は『アサヒグラフ』に伝記漫画「手塚治虫物語」を連載、1992年、朝日新聞社より刊行。
黒川拓二(くろかわ・たくじ)
1940年、広島県生まれ。1965年、早稲田大学政治経済学部卒業。1966年、少年画報社へ入社、「少年キング」漫画班に配属。1968年から「ノーマン」などで手塚番を約2年担当。
「ヤングコミック」の編集を経て「少年キング」の編集長。1974年夏の特別読み切り企画では手塚治虫漫画家生活30周年記念として「紙の砦」を担当。後に出版部に移り、2000年、定年退職。
小出幹雄(こいで・みきお)
1958年、トキワ荘のあった豊島区南長崎生まれ。1992年から家業の時計店・スエヒロ堂を継承し、商店会や町内会などの地域活動に参加。2008年よりトキワ荘記念碑設置実行委員会、トキワ荘通り協働プロジェクトの事務局長を歴任。現在、としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会の広報担当、NPO日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム理事。
2017.10.17
如月堂さんの命日

今日10月16日は、手塚ファンの友人・新井滋さんの命日だ。埼玉県日高市の手塚ファンで、私との交流は「新・虫マップ2003」の頃から始まった。「手塚ファンマガジン」の常連投稿者でmixiでは「如月堂」のペンネームを名乗っていた。「将来の夢は古本屋」でその屋号が「如月堂」だというのだ。「ブラック・ジャック」の永遠の恋人・如月恵も関係があるのだろうか。
その新井滋さんと初めて会ったのは2006年の復活第1回の手塚治虫ファン大会だったのか、もう少し前からだったのか記憶は定かではない。とにかく私にラブラブなおじさんで、手紙やメールにも「紀子さん」と書いきて、私のファンを公言していた。少し近すぎる距離感に私は多少じゃけんにしつつ、年に数回ある手塚ファンの懇親会では毎回必ず会い、それより少し前に一緒に手塚ショップをめぐったりもしていた。
一度だけ、池袋でデートした思い出がある。当時、近代建築ファンになりつつある私がフランク・ロイド・ライトの名建築「自由学園明日館を見たい」と言ったのに付き合ってくれた。2008年4月のことだからもうかれこれ10年近く前になる。






2010年9月25日の手塚ファン懇親会。それが新井滋さんと会った最後だった。大腸癌でその後一年あまりで亡くなってしまったのだった。
10/9/25 11:53 お返事遅れてごめんなさい。トキワ荘通りで立ち話をしていました。冊子15部ゲットしました。お腹がすいたので松葉で軽~く食べておきますね。あしからず。てはまた。
10/9/25 23:51 きょうは一日ありがとう。地元の駅に着きました。いっぱい話せてうれしかったけど、ほんとはもっと話したかった。明日もどうぞ良い日でありますように。旦那様にもどうぞよろしく。お気をつけて。おやすみなさい。
10/10/21 10:18 いつもお世話になります。19日検査で通院したら即日入院となりました。大腸の腫瘍とか。しばらくご無沙汰します。「如月堂旅行中MIXIご容赦」とでもつぶやいておいてください。どうぞご心配なきよう。ファン大会で会いましょう。
10/11/24 6:38 心温まるお便りありがとうございます。いまはオペ前の検査以外は読書とうたた寝の毎日です。骨休めの時間ですかね、どうぞご心配なく。手近にPCがないのが淋しいですね。ファン大会は何としても参加したいのでドクター&ナースのいうことをしっかり守ろうと思います。それではご夫妻もお体たいせつにね(とくにダンナ!)。ではまた。
10/11/24 20:58 メイルありがとう。やはり大阪のオバチャンの買物には、凄いものがあるんやろね。おっと失言。 初めての入院は、初めてのことばかりなので、今は辛抱できるけど、そのうち飽きるだろうな。大塚英志「映画式まんが家入門」(アスキー新書)という本が面白かったです。とんだところで手塚漫画の勉強ができました。あとの楽しみは、日に一度の妻の訪問かな。苦労をかけるなあと、反省することしきりです。夫婦仲良くね! ではでは。
10/11/27 13:12 お元気ですか。私は元気です(そうでもないか)。きょう、ようやく手術の日程が決まりました。29日(月)午後、病名は大腸ガンだそうです。幸い転移はしていないようで、切れば直るとのこと。ブラック・ジャック先生に身を任せるほかありませんね。取り急ぎご報告まで。ご心配なく。おいら、頑張るぜ。ではでは。
10/11/29 6:33 おはようございます。ゆうべは催眠剤でうつらうつらしていたので、お返事遅れてごめんなさい。温かい励ましのお便りをありがとね。いよいよ本日午後と相なりました。おいら、頑張るぜ。って、こればっかり。川口でイベントとは珍しいですね。野口文雄さんがらみでしょうか? なんとか体調を整えて参加したいものです。ではでは。
10/12/7 12:16 心配ばかりおかけして申し訳ないのですが、実は産後の肥立ち、じゃなくて、術後の経過が芳しくなくて予定が未定の状態です。せっかくのお楽しみに水を差すようで相すみませんが、年内の上京は叶わないかもしれません。皆様方にどうぞよろしくね。のりみさんのメイルは百人力です。ではでは。
それきりメールは途絶えた。何度も何度もメールしたが、それきり返信は無かった。
2011年10月16日の事を私は一生忘れないだろう。心配で不安でたまらない気持ちで2011年を過ごし、唐突に鳴った携帯の着信画面を見て私は瞬時にその意味を理解した。
「新井滋の家内です。今朝、主人が亡くなりました。病院でもずっと「手塚ファンマガジン」を読んでいて田浦紀子さんのことを話していました。自分が集めた手塚コレクションは田浦紀子さんに、それが主人の遺言でした。」
どっとその場に泣き崩れた。「ずっと、心配していたんです。でも、ご連絡できずにおりました。」
だが、私は埼玉県日高市までにはとても遺品整理にすら行けなかった。あまりにも私に対する愛情の深さに悲しすぎてその死すら受け入れられなかったのだ。
そうして三年が経った。ようやく心の整理がついた2014年の10月にご遺族に手紙を書いて、手塚先生の誕生日の11月にお墓参りに行った。
奥様は10歳も年下の美人で、高齢の両親と同居。埼玉県日高市は、本当に車でないと行けないところだった。どうやっても遺品整理なんて私には無理だったのだが、それでも少し後悔した。
集めたコレクションは「見ると悲しいから」と、全て処分されてしまっていて、書斎には手塚キャラのポスターだけが寂しく残っていた。(ちなみに「新宝島」の初版本もあって、今になって借りパクしておけば良かったとか思っている^^;)
生前「火の鳥」の連載誌『マンガ少年』や『COM』を譲り受けていて、これだけが私のコレクションとして手元に残った。
それからさらに三年の月日が経った。10月の命日近くになると「たまにはオイラのことを思い出してくれよ」と言われているようで、時折りとめどもなく涙を流してしまうのだった。
私が本を出版の夢を語った時にこう言われた。「どうせ目指すならベストセラー作家を目指してください」
今年、私は「本の出版」という目標をひとつ達成した。そして、来月11月4日に「トキワ荘塾」で初の東京での手塚イベントを手掛ける。
たぶん生きていたら一番喜んでくれたのが新井滋さんだっただろう。
わが家には、新井家から持ち帰った瓢箪が残されている。もとは、野口勲さん(『COM』「火の鳥」の担当編集者)が経営する「野口のタネ」から育てたものだ。ヒョウタンツギにちなんで瓢箪。その瓢箪に向かって私たち夫婦は「新井滋さんに献杯」と杯を交わしたのだった。

左から夫・田浦誠治、故・森晴路資料室長(手塚プロ)、故・新井滋さん(2007年の手塚治虫ファン大会)

森晴路資料室長と話す新井滋さん(2007年の手塚治虫ファン大会)

新井滋さん、田浦紀子、小林準治さん(手塚プロ)
(2008年4月25日、高田馬場にて)

手塚治虫ファン大会2006(復活第1回)にて。
高橋英雄さん、アトム、田浦紀子、田浦誠治、森晴路さん(手塚プロ)、新井滋さん、石之博和さん。
2017.10.12
北野高校の「弾痕壁」の傍に咲く彼岸花

北野高校の「弾痕壁」のそばに咲いていた彼岸花。
そうか・・・彼の岸に逝ってしまった人たちを弔うためにここに植えられたのか・・・。
昭和20年6月15日の空襲で学校防衛にあたっていた北中生2名が亡くなった。六稜会館地下ギャラリーには、当時、中学二年の中島要昌君がかぶっていた鉄兜が展示されている。物言わぬその鉄兜を見る度に私はそこに「現実の戦争」を肌で感じる。手塚治虫の戦争漫画『カノン』で、生徒をかばって即死した女性教師の姿が描かれている。手塚漫画は時に残酷で、目をそむけたくなるようなシーンが多いのだが、それゆえに強いメッセージを感じる。


私は『親友が語る手塚治虫の少年時代』を編集執筆するにあたり、徹底的な実名主義を取った。講演録を起こす中で登場する同級生の名前について、出来る限り尋ねて調べて書き記していくことを心がけた。そして、この作業があと2年遅れていたら「死という現実」の前に出来なかったことだっただろう。おそらくそれは「手塚治虫が主人公の伝記」では必要のないことで、他の人は誰もやらなかった、やろうとしなかったことであろう。
本書において、実は大半の人が故人となっているのだが、ここもあえて故人であることを出来るだけ書き記さないように心がけた。なぜならその時「手塚治虫との同時代」を確かに生きていたからだ。そこには無数の人生とストーリーが存在し、手塚治虫との接点があった。「手塚治虫の北野時代」には「現実の戦争」があって、それこそがやはり手塚漫画の根底に流れるメッセージだったと思う。
取材の中でそのサイドストーリーもいろいろお聞きしたのだが、講演録が軸である以上、どうしても書き記せなかった話も多数ある。その話は投稿文などの形で・・・追々書いていければと思う。



2017.10.12
10/7六稜トークリレー「親友が語る手塚治虫の少年時代」


10月7日の六稜トークリレーが無事に終了しました!ある意味、これまでの私の活動の集大成の講演会。前日の不安と緊張感はどこへやら、「二時間の一人舞台」をしっかりと務め上げました。六稜トークリレーは、十数年来の常連参加者だったので見知った顔ぶれも多く、また、年齢層とマナーやモラルの高い六稜OB会ということもあり、アットホームな雰囲気の中でお話しさせていただきました。なんといっても圏内トップクラスの北野高校の正門に、自分の講演ポスター貼ってあったのを見た時はちょっと感動でした(笑)。


先に来ていた弟の高坂史章と合流し、拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』の販売に来て下さった和泉書院さんに挨拶。


到着したら、母校・賢明学院の同級生の大竹香里ちゃん夫妻が最前列で待っていてくれて嬉しかった。精華大の後輩で手塚ファンの佃賢一くん、そして、旧知の手塚ファンの田中昭さん(六稜75期)がわざわざ東京からお越しくださいました。田中昭さんは、同期の方に熱心に私の本を宣伝して下さり、藤目幸擴さんなど75期メンバー4人と一緒に参加してくださいました。

先日「紙の砦」の舞台を一緒に歩いた「ザ・淀川」編集長の乃美夏絵さんも来てくださいました。

前からざっと数えたところ、事務局含めて実数50名の参加者。まずはイベントとして成功と言えるでしょう。
六稜同窓会会長の笹川忠士さん(六稜74期)の挨拶でスタートし、続いて六稜同窓会催事委員長・谷卓司さん(六稜98期)の挨拶。


谷さんは『親友が語る手塚治虫の少年時代』の装幀にとどまらず、ほぼディレクションに近い役割を担ってくださいました。昨年の8月から今年の4月まで、実に9か月にわたる長距離マラソンを私と共に伴走して下さったのが谷さんでした。

講師紹介は、手塚治虫さんの同級生・59期金津博直さん。


今回は話の焦点を「手塚治虫の北野時代」に絞りました。冒頭で故・三島佑一さんのことを話しました。そして、金津博直さん、美術部で一緒だった岡原進さん、六稜昆虫研究会で一緒だった林久男さん。なんとか午後2時55分に第1部終了し、「本を購入いただいた方、サインしまーす」と営業して即席サイン会。手塚キャラ・ママーももうすっかり書き慣れたもの。「これは何の絵ですか?」と5人くらいに尋ねられました。


休憩を挟んで地下ギャラリーに移動。いつもは出ていない「クレオパトラ」などの絵も出ていて驚きました。

手塚治虫が描いた当時の三木武夫首相の絵なども。


地下ギャラリーには六稜同窓会が保管する貴重な資料や絵画が展示されていています。佐伯祐三など著名画家の作品も。


15分ほど見学の後、再び3階に戻って第2部。後半は私の20年来の「虫マップ」の活動のこと、大阪の手塚治虫ゆかりの地のことを話し、終始和やかな雰囲気で会を終えることが出来ました。


▲イベント終了後、「弾痕の壁」を見学

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