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2018.02.15
下崎闊さん講演「昭和を生きた手塚治虫~東久留米の思い出~」

2月10日(土)、東久留米市役所の市民プラザホールで、下崎闊さんの講演「昭和を生きた手塚治虫~東久留米の思い出~」が開催されました。下崎さんは、1965(昭和40)年、虫プロダクションに入社し、「ワンダースリー」の制作進行に携わったのち手塚先生の秘書となります。その後「リボンの騎士」「千夜一夜物語」「どろろ」等を制作。1968(昭和43)年に設立された手塚プロダクションの制作プロデューサーとして「ふしぎなメルモ」「海のトリトン」等の制作に携わられました。


冒頭で、虫プロダクション代表取締役社長・伊藤叡さんが今年1月25日に、亡くなられたこと。生前、「ワンダー君の初夢宇宙旅行」で初めて編集を任された思い出を語り合ったことなどを話されました。そして、手塚プロダクション資料室長・森晴路さんが2016年4月に亡くなられ「判らないことは、森さんに聞け」が出来なくなったこと。相次ぐ手塚関係者の他界に危機感を感じる中で、拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』の出版に至ったことなどを話されました。そして、自分も手塚先生のことを語っておかなければならないと思ったと下崎さん。この度、手塚先生の終の棲家となった東久留米で、命日「治虫忌」を機に下崎さんの話を聞く会が催された次第です。



下崎さんは、1965(昭和40)年、新聞広告をきっかけに虫プロダクションの入社試験に合格し、「W3(ワンダースリー)」班に配属され、進行の仕事を任されました。「ワンダースリー」の放送が終った翌年6月、「漫画映画の現場をわかる人間を一人つける」と言う事で、社長室勤務の辞令が下りました。入社前は「手塚治虫」の名前も知らなかったのに、社長室に入って手塚先生の仕事ぶりを間近で見るようになり、世間で「天才」とか「神様」と言われる意味がようやくわかってきたと言います。半月もしないうちに、下崎さんはすっかり「手塚治虫の崇拝者」となったと語られました。

しかし1973(昭和48)年、虫プロ商事と虫プロダクションの二社が相次いで倒産。手の平を返すように人が去ったり、混乱の中で信頼していたスタッフにアニメ化の権利を取られたりして、落ち込む手塚先生の姿を間近で見たと言います。

1983(昭和58)年1月15日、東久留米市の成人式で、手塚先生の講演会が行われました。最大の理解者であった母・文子さんを1月4日に亡くしたばかりだった手塚先生ですが、講演にはきちんと出席され、新成人を前にアトムやブラック・ジャック、当時連載中だった『陽だまりの樹』の伊武谷万二郎のイラストなどを次々に描かれました。



この時に手塚先生が語った言葉が「人を信じよ、しかし人は信じるな」。大きく板書した後、続けて先生はこう語ったそうです。「四方八方敵だらけの厳しい社会の荒波を乗り越えていくには、「人を信じるな」という戒めを忘れてはならないでしょう。そして、私が戦争中にいつか平和な世界が来ることを信じていたように、より良い世界の夢を描くことはとりもなおさず「人を信じ」なければできないことです。相反する二つの言葉ですが、個人の生活においては用心をしながら自ら望む道を突っ走るよう心がけねばならないと同時に、人間すべてを信じ互いに励ましあった、よりよい社会の実現のための核をつくっていただきたいと思います。」

「人を信じよ、しかし人は信じるな」。これから希望を胸に社会人として生きていく新成人を前に語った言葉としては意外なものではないでしょうか。しかし、虫プロから手塚プロに移行する動乱期を共にした下崎さんにとっては、この言葉こそ手塚先生の「座右の銘」だと思ったそうです。

下崎さん所蔵の手塚先生ゆかりの資料も展示されていました。

虫プロ商事発行の『COM』で「火の鳥」黎明編と復活編の担当編集者だった野口勲さんと話す下崎さん。

サイゼリアでの打ち上げ会で虫プロ時代の旧交を温める下崎さんと野口さん。この時聞いたオフレコ話は壮絶で濃かった!

手塚ファン8人で、サイゼリアアにて打ち上げ会。
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