旧阪急梅田駅コンコースのことがあって以来、ことあるごとにレトロ建築や歴史建築が気になって仕方が無いのりみです。実は先日北新地にあるジュンク堂大阪本店に初めて行ってきたのですが、その帰りにふっと気づくと何やら歴史を感じるモニュメントが…!もしや?と第六感がはたらいた私。近づいてみるとやはりそうでした。毎日新聞社玄関部。このモニュメントを実は探していたのです。なんでかって?手塚先生のデビュー作『マアチャンの日記帳』が連載されたのは毎日小國民新聞(現在の毎日小学生新聞)なんですよ。ということは、つまり手塚先生の漫画家生活はここから始まった!とも言えるわけです。

場所はここです。現在「堂島アバンザ」が建っていて、1階~3階までがジュンク堂書店となっています。

毎日新聞大阪本社堂島社屋正面玄関


昭和21年の正月よりスタートした『マアチャンの日記帳』。大阪大学医学専門部に通いながらのマンガ家生活でした。その旧阪大跡地には現在、国立国際美術館が建っています。ここから徒歩10分くらいの場所でしょうか。ということは、大学の帰りに『マアチャンの日記帳』の原稿を歩いて届けに行っていたのですね。当時の毎日新聞大阪本社には井上靖氏や山崎豊子氏なども在籍していたといいます。

当時、学芸部で仕事をしておられた山崎豊子さんは、学生服を着た坊やが、なにをしにきたのか、とのぞきこんだ。私の作品を見て、これは今までの漫画のキャラクターと違うなと思った(カモシレナイ)。その横で井上靖副部長が、ふり返りもせずにムッツリと事務をとっていた。
(手塚治虫著『ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝1』より)



また、余談ながら旧毎日新聞社から徒歩3分くらいの場所に、よく映画を観に行ったといわれている朝日ビルディング(旧朝日会館)があります。
旧毎日新聞社玄関部キャプション

旧毎日新聞社玄関部キャプション

毎日新聞大阪本社堂島社屋正面玄関

<由来>
毎日新聞大阪本社は1876年(明治9年)、大阪最初の政論新聞として創刊された大阪日報の流れをくみ、1888年(同21年)、大阪毎日新聞となった。
1911年(同44年)、東京初の日刊新聞・東京日日新聞を合併。1943年(昭和18年)に社名、題字とも毎日新聞に統一した。
 大阪毎日新聞の社屋は大阪市東区(現、中央区)大川町にあったが、1922年(大正11年)3月、大阪市北区堂島一丁目の当地に社屋を建設し、移転した。建物は地下1階、地上5階建て延べ12,200平方メートル。御影石を外壁に使った重厚な建物で、「大毎」の拠点として市民に親しまれ、太平洋戦争の空襲にも耐えた。毎日新聞社大阪本社は1992年(平成4年)12月、西梅田の新社屋に移った。「堂島アバンザ」建設にあたり、大正時代の貴重な建物である毎日新聞大阪本社堂島社屋の正面玄関の一部をモニュメントとして復元、展示する。
1999年3月
(キャプションより)


『マアチャンの日記帳』の連載予告記事にはこうあります。

あたらしく、あすかられんさいするまん画「マアチャンの日記帳」の作者手塚治蟲さんは、みなさんと同じクリクリ坊主で、十九歳のお兄さんです。毎日、大阪帝大医学専門部に通学して、お医者さんになる勉強をしてゐられますが、小さい時からまん画が大好きで、國民学校二年の時からいろいろのまん画をかいてたのしんでゐられました。あまり上手なので、みなさんのためにれんさいをすることにしました。ほがらかなマアチャンをかはいがってあげてください。
小國民新聞編集部


ちなみに、この予告記事には19歳と書いてありますが、実際は17歳でした。手塚先生が生前2歳ほど歳を偽っていたのは有名なエピソード。あまりに若くデビューしたため、周りのマンガ家集団から子供扱いされたくないので、2歳ほどさばを読んで自称していたと言われています。

【参考資料・文献】
手塚治虫氏『ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝1』
伴俊男氏+手塚プロダクション『手塚治虫物語』(朝日文庫)
『マアチャンの日記帳』(講談社手塚治虫全集)
Tezuka Osamu @ World マアチャンの日記帳
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