4月14日、北野高校で行なわれた六稜トークリレー「紙の砦:手塚治虫と通年動員~大阪石綿を共に」に参加してまいりました。

講師の金津博直さんは、北野中学3・4年が手塚治虫と同じクラス。59期の入学試験は書類選考と口頭試問のみでした。当時の校長先生は長坂五郎先生。あだ名はオットセイで温厚で自由主義の先生だったそうです。(⇒六稜WEB 歴代校長 参照)
「手塚君の美術の成績は、優良可の三段階評価の欄に秀がついていたほど絵が上手かった。美術の岡島吉郎先生(※)は大変手塚君のことをかわいがっていた。」と回想されていました。
(※岡島吉郎先生⇒六稜WEB がちゃぼいまんが道 参照)

金津博直さん

しかし、そんな北野中学にも次第に戦争の影が。黒い学生服は国防服に。ただ、正面に六稜の星がついた黒い制帽と白いゲートルだけはそのままだったそうです。手塚先生が描いたこの絵には、その制帽とゲートルが描かれています。
当時の北中生

戦況は次第に厳しくなり、昭和19年の9月より、中津の大阪石綿に勤労動員へ行くことになりました。そのエピソードを描いたのが、自伝マンガ『紙の砦』です。

食事は非常に粗末で、テーブルまでスレート製。「こんなもん喰えるかい!」と叫ぶほどひどかった豆ご飯は、ご飯の中に大豆が入っているのではなく、大豆の中にご飯が入っていたそうです(笑)。
これはその大阪石綿での貴重なスナップ写真。
大阪石綿でのスナップ

大阪石綿でのスナップ

左端が手塚治虫。当時のあだ名はチビメロン。右端に写っている松岡秀矩さん(あだ名はダルさん)はヒゲオヤジのモデル。同じく同級生の今中宏さん(※)のお祖父さんがヒゲオヤジのモデルと言われていますが、金津さんがおっしゃるに、松岡さんの顔に今中宏さんのお祖父さんのヒゲをくっつけたのではないか、とのこと。こんな感じ?

※今中宏さん、林久男さん、手塚治虫先生の3人で北野中学時代に六陵昆虫研究会を結成。
【参照】
手塚先生の昆虫標本鑑賞レポート
六稜NEWS-030727 講演会「手塚治虫と昆虫」
松岡さん


『紙の砦』に描かれているように、木銃で藁人形を突き刺す銃剣術の授業もありました。これは配属将校が来る日は必ずあったとのこと。教練がキライだった手塚治虫は授業をサボって朝日会館に映画を見に行っていたそうです。

動員中も手塚治虫は漫画を描くことをやめず、休憩中倉庫でこっそり描いていました。その漫画は仲間の間でまわし読み。また、多くの人に漫画を見てもらうためにトイレに漫画を貼ったエピソードも本当のことだったそうです。ただ、これはごく短い間ですぐにやめてしまったとのこと。しかし、『紙の砦』の中に描かれている火の見櫓にのぼって敵機の見張りをさせられたエピソード。これは誇張されたフィクションなんだとか。
大石社の記憶

昭和20年3月、ほとんど授業が行なわれていない状態だった北野中学を、59期のみ一年早く卒業することとなりました。「送別記念に」と手塚治虫が同級生皆に似顔絵を描いて贈ったそうで、それが今、金津先生の手元にある「大石社の追憶」です。裏にびっしりと寄せ書きをしたのは北野の仲間たち。その友情の証を金津さんは、卒業後もいつも鞄に入れて持ち歩き、そのため奇跡的に焼失を免れました。なぜならその後、金津さんの自宅は空襲で焼けてしまったからです。
大石社の記憶

卒業後、教職の道を歩んだ金津さんは、大森俊祐さんと知り合いました。大森俊祐さんは池田附属小学校で手塚治虫と同級生で、「手塚君の話題で盛り上がった」とのこと。

時は流れ、1988年10月31日。豊中市立第三中学校で手塚先生の講演会が行われました。これは当時校長先生をされていた大森俊祐さんの依頼によるもの。講演後、三中の校長室で大森俊祐さんが写した写真が、今も金津さんの手元にあります。
金津博直さん

この時、手塚先生は校長室で、生徒たちのためにボールペンでキャラクター画を描きました。「豊中三中の皆さんへ」と題された絵に描かれたのはアトム、レオ、パンジャ、B・J、サファイア、ユニコ、ヒゲオヤジ、写楽、ヒョウタンツギ。この絵を描きながら手塚先生は、「今まで一筆でマルが描けたのに一度に描けない。マルがマルにならない。」ともどかしそうに言っていたそうです。講演の中で「とにかく命を大事にしましょう」と語り「僕はまだまだこれから漫画を描き続ける」と意気込んでいた手塚先生―。しかし、この日が、金津さんが手塚先生に会った最後になりました。
(この日の講演の映像は昨年11月に放送されたNHKスペシャル「ラストメッセージ」で放映)

『アドルフに告ぐ』『ゴッドファーザーの息子』『どついたれ』『ゼフィルス』『カノン』『紙の砦』…。北野中学時代の戦争体験は、手塚少年の心に深く深く刻まれ、それが手塚作品に流れる生涯のテーマとなっています。大阪石綿での勤労動員中も漫画をやめずに描き続けたことは、戦争に対するささやかな、でも強い抵抗であり、それがまさしく「紙の砦」だったのでしょう。


▼六稜トークリレー毎月恒例の記念写真。クリックで拡大(リンク先は六稜WEB内)
六稜トークリレー

最後列左から7番目が私です。8番目が私の弟。

▼金津さん所有の「大石社の追憶」(1945年)に描かれたサインと大森俊祐さん所有の「豊中三中のみなさんへ」(1988年)に描かれたサインを比較すると、形状が全然違いますね!

手塚サイン比較




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北野高校・メモリアルウォールの風景印
北野高校昭和校舎の記念タイル
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