スローペースで書き続けた東京・手塚治虫ゆかりの地探訪記ですが、当日ご案内いただいた小林準治さんから、レポートが送られてきました。のりみ本人が読むと結構恥ずかしいところもあるのですが(笑)やっぱり嬉しかったので転載許可をいただきました。『月刊広場』2008年1月号に掲載された記事です。ゆかりの地めぐりのバックナンバーとあわせてお楽しみください。

※『月刊広場』は林捷二郎氏が個人で編集・発行している月刊同人誌です。(市販はしていません)購読希望の方は直接林氏まで。→はてなダイアリー参照


【東京・ゆかりの地めぐりバックナンバー】
手塚先生のお墓参りへ
並木ハウス
トキワ荘跡
講談社旧本館
練馬区の虫プロと手塚プロ 


ゆかりの地案内記

ゆかりの地案内記

ゆかりの地案内記


『手塚先生ゆかりの地案内記』
                                            小林準治


 12月8日、ファン大会の翌日、12月9日の日曜日、かねてからの約束で、大阪のファン、田浦のりみ夫妻を手塚先生ゆかりの地を案内する。手塚先生は大阪、宝塚時代と比べると、東京での時間の方が圧倒的に多い。しかし、ゆかりの地となると関西時代より少ないのだ。

 9日の午前11時、JR巣鴨駅で会うことにした。夫妻の友人・高橋氏も同行し、一行4人、小生の車、ジムニーワイドでの案内である。5分ほど遅れて現地に着くと、すでに3人は来ていて、早速3人は車に乗り込む。最初の地は手塚先生の眠る菩提寺總禅寺である。都電新庚申塚のすぐ近くで巣鴨から1キロくらいの近場である。

 コイン駐車場をみつけ、寺まで歩く。總禅寺は以前よりずっと立派に改装されていてびっくり。線香を買い、先生の墓に行くと、2人の女性の先客がいた。のりみさんがこの2人に声をかけると、2人とも昨日のファン大会に参加していて、ブログ仲間の手塚ファンということで3人は意気投合していた。線香をあげ拝んだところで記念撮影。この後は手塚先生がトキワ荘を出た後の並木ハウス見学ということで、ここから2人の女性を加えて6名で行動する。並木ハウスは豊島区鬼子母神近くである。私は、そのあたりの地理はよく解らないし、都電鬼子母神駅は新庚申塚から6つくらいしか離れていないので、車でなく都電で移動することにした。みな、大阪、福島とか地方から来ているので、東京に唯一残った路面電車に乗るのも珍しい体験でよい想い出になるだろう。
都電荒川線

 ゴトゴト都電が走ってきた。「わ~かわいい電車!」のりみさんの声が響く。私も都電に乗るのは11年ぶりであった。昔の車両と比べると、少しミニ化され、コンパクトになっていて、確かにかわいらしい。この都電は民家の間を走っていくので、一般道路との交差も多い。30~40キロくらいでスピードもゆっくり。庚申塚のホームは目の前がだんご屋でローカル色が強く面白い。

 12~3分で鬼子母神駅に着く。参道は昭和の感じが色濃く残っていて、古い建物もちらほら。なんといっても両脇に並ぶ大ケヤキの並木がすごい。古いものは樹齢600年のものもある。晩秋の銀杏の葉がさらさらと雪のように降る。その落ち葉で参道は美しい黄色である。並木ハウスは最初わからず通り過ぎてしまったが、都電の駅のずっと近くにあった。
「ここ、ここよー並木ハウス」またのりみさんが発見した。
並木ハウス
 のりみさんはデジカメを手に元気いっぱい実によく動き、年よりずっと若い感じ。可愛くて22~23歳くらいにしか見えない。「カメラを持つと右も左も関係なく動いて、車とぶつからないか心配です」と旦那さんがいう。今回400枚以上の写真を撮ったという。

 並木ハウスは、先生のいた昭和27年当時と基本は全く変わってなくて、まさに歴史的建物と言ってよいだろう。壁はところどころ修理されているが、「三丁目の夕日」に出てくるセットのようだ。しかし実際に今も住人がいて、小さな庭には金魚が数匹泳いでいる。塀には赤い蔦がからむ。玄関に入った右側の壁には、古いアトムのポスターが貼ってある。もう灰色に変色していたが、それは1990年の近代美術館の手塚治虫展のときのもので、だれがここに貼ったものなのか。つまり17年も貼ってあるということだが、かつて手塚先生が居たかかわりか。

 正午を過ぎていた。外は晴天であるが、廊下は暗く、古いガラス窓を通したセピア色の光を通している。トイレや台所は共同で、今では珍しいと思われるアパートだ。

 板橋区あたりで昭和50年代までは、こういうアパートは所々残っていたが、平成に入って、次々とマンション風に建て替えられてしまった。先生の入っていた当時は、この建物もモダンなアパートだったのだろう。池袋へも歩いて15分くらいで行けるから良い場所である。私は2~3枚の写真を撮すが、のりみさん、のりみさんの友人(墓地で知り合った)は何十枚も撮っていたようだ。

 とかいろいろあって、100メートルほど離れた鬼子母神にお参り、ここも古い駄菓子屋があったり、沢山の古樹木があり、実に味がある。ここは昔、ススキで作ったススキミミズクという郷土玩具が有名であったが、近年はススキが採れなくなって今は売ってない。かわりにベンチや門など、いたるところに彫刻のミミズクが繁殖している。(最近、東京新聞[12月8日]で紹介されていた)

鬼子母神

 午後1時を過ぎ、そろろろ皆、空腹だ。まだお昼を食べていない。昼食は3番目のゆかりの地、椎名町トキワ荘跡近くの中華屋さん「松葉」でラーメンということになっていた。手塚先生をはじめ、トキワ荘の面々、藤子不二雄さんや寺田ヒロオさん、石森章太郎さん、鈴木伸一さんらが、よく食べに行ったという中華屋さんだ。

 ということで、4名はジムニーが置いてある新庚申塚へ戻り、2人の女性は車に乗れないので池袋に出て、西武池袋線で「松葉」にむかい、合流することになった。

 ジムニーで椎名町、東長崎方面にむかう。少々、道に迷いながら「松葉」にたどり着く。電車の方がずっと早く着く筈なのに、彼女らは10分くらい遅れて来た。
「松葉」は藤子さんの「まんが道」の原稿コピーが貼られ、歩いていても、すぐにわかるようになっている。向かい側には「トキワ荘跡地」のカラー看板があり、“この道のつきあたり右側にトキワ荘がありました”という解説が書いてあった。ほとんど名所旧跡のノリである。いろんなファンが訪ねてくるのだろうなということがよく解る。
トキワ荘跡看板

 「松葉」は3階建てで1階が店になっている。日曜日ということ?からか、まわりの店は八割がた閉まっているが、ここは一日中開いているらしい。
「2時までに行かないとお店しまっちゃうところが多いんですよう、間に合うと良いんだけど」と言うのりみさんの不安は杞憂に終わった。よかったね、のりみさん。
松葉

 店には、野菜炒めや酢豚など、いろいろあったが、なんといってもここはラーメンだ。ラーメン6つ、ギョーザ3皿を取る。もしやまずいかも知れないと思ったが、しょうゆ味のラーメンは、昔の支那そば風で、びっくりするほどではないけれどおいしい。ギョーザも美味い。なんといっても今どき450円というのが良心的。店の中にも藤子不二雄さんや、鈴木伸一さんらの色紙が飾ってあった。この3日後の12月12日、らぴゅた先生会議で伸一さんに出会ったので、この旨はなすと「そう、行ったの、あそこ昔からあるんだよね」と話された。(ちなみに鈴木伸一さんは、オバQの小池さんのモデルで本物もそっくりです)トキワ荘の方たちが通った店のラーメン!まさに“ゆかりの地”訪問である。もとのトキワ荘跡にも行く。今は印刷会社のビルになっていた。ここも写真を撮っていた。
トキワ荘

 ここを出て、2人のファンとはここでお別れ。また4名で車で移動。次は講談社に行きたいとのことで、また池袋に戻り護国寺に向かう。講談社などの出版社は、現在は、打ち合わせなど本当に用事のある人でないと中に入れてくれない。であるから、由緒ある大理石造りの本館撮影も外からである。午後3時を過ぎ、だいぶ冷えてきた。のりみさん一人がぴょんぴょんと子猫のように動きつつ写真を撮りに行く。3人の男は車の中で待つ。本館のエンタシスのような大理石柱には、とても風格がある。ここで「まんが道」の撮影(1987年)が行われたのだ。この建物は、大日本雄弁講談社からのもので戦前からのもの。いつまでもあって欲しい建物の一つだ。のりみさんは古い建物にも大変興味をもっていて、そのようなサークルにも参加しているので、きっと満足されたのだろう。

 冬の日は短い。4時近くになって、どんどん陽が墜ちていく。今の季節だと外での撮影は4時30分が限度だ。5時ではもう真っ暗になってしまう。5つめの訪問地は練馬区富士見台「虫プロダクション」、私がかつて勤めたところである。護国寺から池袋に出て練馬へはスムーズに行けたのだが、その先に落とし穴があったのだ。

 なんといっても虫プロに行くのは、1985年「おんぼろフィルム」の撮影以来だから22年ぶりのことである。その時は、まだ1960年代の感じが残っていたのだが、2007年の今回、街は一変していた。なによりも西武池袋線が地上から高架線になっていて、やたらと一方通行になっている。もともとあのあたりは道が狭く、車は走りにくいところであったが、なんと標識に従っていくと目的地からどんどん離れてしまうのだ。ここ右に行きたいのに行けない。あ、ここは左に行きたいのに。気がつくと隣りの貫井町…。
虫プロ入り口

 畑や緑地、空地が点在し良い環境のあの街並みが、とにかく家、家、家びっしりとなっている。それでも4時30分過ぎにたどり着くが、もう野外撮影にはストロボをたかなければ無理であった。冬の陽は早い。虫プロはかなり老朽化していた。筑後46年、修理しつつ使っている。日曜日なので誰も居らず、外観、有名な虫マーク、3名は写真を撮る。旦那さんの誠治氏は言う。
「案外小さかったんですね」
「いや、これは第一スタジオのみで母屋のあったところをまわってみましょう」と私。
かつて手塚邸のあったところをぐるりと歩く。今その地に8軒の大きな家が建っていて、そこにいる人たちももう、30年近く住んでいることになる。
「このへんが先生の車の駐車場でした」
「ここはお父さんの部屋と勝手口」
大体の説明をする。
誠治氏は「うわー、歩いてまわってみると、やっぱりすごい広い土地だったのですねえ」と驚く。そう、今、残っているスタジオだけでは、とてもかつての大きさを想像するのは難しい。まわりの家は、暗くなり、その輪郭線は次第にぼやけてきた。

 スタジオの前は当時、少し広くなっていて、そこで昼休み仕上の先輩のお姉さまたちが、よくバトミントンをしていたものだ。その光景が脳裏に浮かんだ。大きな農家だった向かいの家は、建て売りの家になっていて、ガレージから2台も3台もこちら向けに車が頭を出している。いやぁ、変わった、変わり過ぎた。今、虫プロは見学禁止になっていて、手塚マニア、ファンの間でもほとんど知られていないと、のりみさんは言う。

 大阪に帰る田浦夫妻は8時ごろの新幹線に乗るという。6時30分には練馬に出て東京に向かうという。残り時間はだんだん少なくなる。最後に手塚プロが高田馬場に行く前のスタジオのビルがあるかもしれないと、虫プロから近くの越後屋ビルに向かう。ここは下が越後屋肉店、2階が手塚プロで、当時「ふしぎなメルモ」などを作っていた。

 ゆっくりと車は駅の方へ向かうと、あった!ありました。越後屋!しかし洒落たビルになっていて、BEEF GALLERY Echigoyaなんて表示で2階はステーキレストランになっていた。1階は休みらしくシャッターが降りていて、なんと!そこには1970~1976年手塚治虫氏のスタジオがありましたという説明文と、手塚先生の拡大したイラストがシャッター表面を飾っていたのだ。この史跡的表示は全く知らなかった。どこに行っても何らかの形で、手塚先生の足跡が残っていて嬉しい。
越後屋

のりみさんはここもパチパチと撮影していた。すると白髪の70歳くらいのご婦人が話しかけてきた。
「私は昔、手塚先生の隣の家でパーマ屋をやっていたの、あの頃若い人が駅からぞろぞろたくさん歩いてきてね。先生のお母さんとはよくお話したものですよ」
これには一同びっくり!全くの偶然の嬉しい出会いというか、予想外のことでした。
「そのぞろぞろ歩いてきたうちの一人がボクです」
そう言うとそのご婦人は懐かしそうな顔をしたけれど、私はその方は全く初めてである。近所の方というのは知らなくて当然だけれど、当時きっとすれ違っていたりしたのだろう。のりみさんは、この方の名前を聞いたか写真を撮ったかは知らないけれど、嬉しかったようだ。

 というわけで、この日、一日で6箇所の手塚先生ゆかりの地を廻ったことになる。近くのジョナサンに入り、ピザやコーヒーを取り、4人でお疲れ会。この日行ったところで私自身が一番感激したのは並木ハウスであった。タイムスリップしたような1950年代がそのままあるような奇跡的風景であった。

 6時30分、店を出て、練馬駅近くまで3人を送る。8日ファン大会、懇親会。9日、ゆかりの地探索、と充実した2日間だった。後日のりみさんからは、すごく楽しい2日間でしたというメールが届いた。
(完)
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