改めて、マンガ学会の大会レポートです。
先にも述べましたが、全体を通して感じたことは、手塚ファン大会とはまるで違う空気だったこと。参加者はマンガ学会員が大半を占めるわけですが、マンガ学会は手塚ファンとしてではなく、もっとマンガ界全体や漫画史全体から手塚治虫の位置づけを考える、論理的に手塚マンガを語るといった姿勢が感じられました。 そういう意味ではおそらくファン大会では絶対選び得ないようなパネリストの人選があったりして、(古徳稔さんと田中圭一さんが並んでいるなんてファン大会じゃあり得ない^^;)そこが大会としての成功要因だったと思います。

一日目は、トップバッター津堅信之氏の「アニメ作家としての『漫画家・手塚治虫』再考」が特に面白く、アニメ版「アトム」がもたらした後の制作環境の悪影響は、本当は違うのではないか、と丁寧に紐解かれました。津堅氏の著書は夏目房之介さんもブログでも紹介され、小林準治さんのインタビューも載っているのでオススメ手塚本のひとつ。藤本由香里氏の「『新寶島』の異なる版の異同について」もご自分で収集された『新寶島』の原本と他の人が持っている版との違いを検証していく丁寧な研究姿勢。こちらも興味深いところでした。一日目の研究発表に関してはレジュメに要約が載っていますし、論文はいずれ学会誌に載るでしょうから、ここでは、期待していた二日目のパネルディスカッションについてまとめておきたいと思います。

それぞれのパネリストが語るテーマが多岐にわたったので(午後は特に)、全体として話をまとめることが困難。なので、以下パネリストごとに発言をまとめてみます。でも、個々の話はそれぞれに面白かったので、こういう形もありかな、という気もします。



■手塚のルーツ/ルーツとしての手塚
パネリスト/竹内オサム氏 [同志社大学教授]
        中野晴行氏
        夏目房之介氏 [学習院大学教授]
   座長/宮本大人氏 [北九州市立大学准教授]


いかにしてマンガ家・手塚治虫が誕生したのか。そのルーツとは何のか?

■竹内オサム氏
竹内さんは今夏発売予定の伝記「手塚治虫」(ミネルヴァ書房)を執筆されている関係で、手塚先生の生活史を中心に調べたそうです。そして、手塚のルーツといえばやはり昆虫採集。平山修次郎氏の『原色千種昆蟲図譜』に影響を受けたことは有名ですが、手塚先生は上京した際、平山修次郎氏の研究所を訪ねたことがあるそうです。尊敬する平山氏の立派な姿を想像して行ったものの、そこで見かけたのはステテコ姿で芋を掘っていた人。がっかりして結局声をかけずに帰ってきてしまったとか(笑)。この話は弟の手塚浩さんからお聞きしたエピソードだそうで、今度発刊される伝記が楽しみです。

■中野晴行氏

中野さんといえば『手塚治虫のタカラヅカ』(私も虫マップ執筆の際大変お世話になった本)ですが、現在絶版のため、入手しにくい現状があります。手塚漫画、とりわけ『リボンの騎士』に代表される少女マンガの宝塚歌劇による影響、阪急沿線の文化や阪神間モダニズムといったことが手塚漫画のベースにあることは言うまでもないことですが、ここでよく誤解されるのは、当時の宝塚文化の位置づけ。宝塚は兵庫県に属するので、現在のイメージの宝塚で語られたりするところはあるが、そうではない。神戸がモダンだったから宝塚がモダンだったのではなく、当時は大阪のほうがはるかにモダン都市だった。(これは私もこのブログで折りに触れて書いている「大大阪」ということですよね)宝塚は兵庫県だが、当時は大阪の文化圏だったという指摘が非常に興味深かったです。

■夏目房之介氏
やはり手塚のベースにあるのは戦争体験ではないか。なぜ手塚治虫はあれほどまでに寝食をとしてマンガを描き続けたのか。それは手塚にとってマンガを描くこと=生きることだったからではないか、と表現者・手塚治虫の根源は戦争体験があることを夏目さんは強調されました。当時は死ぬことを覚悟していた。同級生によると「あの当時は誰一人この戦争が終わった後に生きているなんて思っていなかった」と。それが、戦争が終わって「これでマンガが描ける!」と思った。

「でも、戦争が終わった、マンガが描けるって思ったってことは生活の心配をする必要がなかったってことですよね。これは環境として大きいですよね。」(宮本氏)

「いや、でも当時まだお父さんが出征して帰ってきていなかったからそんなに楽観的な状態ではなかったはずですよ。それと、戦争体験といえば水木しげるさんの場合をお聞きしたいのですが?」(中野氏)

戦争体験はそれぞれ体験する時期、境遇によって違って、全然一律なものでは無い。戦後マンガのバックボーンには戦争の影響があるが、水木さんと手塚さんの場合はそれぞれ全く違うものがある。水木さんはどっかで人間をやめている、妖怪になっちゃっているんですが(笑)、手塚さんは最初から最後まであくまでも人間。ここがある意味手塚さんの限界でもあり良さでもある。水木さんはそこを超えている。この二人だけで我々は豊かなマンガ文化をもっている。

この後、竹内さんの修士論文の頃の図版が登場したり、中野さんによるめずらしい手塚先生の写真などが映し出されたりしました。終盤で、中野さんが「“謎のマンガ家”おさ・たけしのマンガです」と披露したのが竹内さんのマンガ。竹内オサムさんが初めて手塚先生を訪ねた時のエピソードです。当時肉屋の2階(私も去年行った越後屋ですね)にあった手塚プロを訪ねるため上京し電話をするも、当時のマネージャー松谷さんに「忙しいので明日にしてください」。その言葉どおりに翌日にかけるとまた「明日にしてください」。そんな応酬が4日ほど続き、とうとう根負けして手塚先生に会えることに。「30分だけですよ!」と松谷さんに念を押されつつ、手塚先生は2時間半も話してくれたこと、スタジオに泊めてもらったこと、マンガ家志望だった竹内さんに「おさ・たけし」というペンネームを付けてくれたこと、『チッポくんこんにちは』の絵本を下さったことを懐かしそうに話されました。

(午後の部に続く)

【参照】
夏目房之介の「で?」日本マンガ学会(松山 「手塚治虫再考」
長谷邦夫の日記 松山大会から帰る
漫棚通信ブログ版 日本マンガ学会第8回大会イン松山
愛媛新聞 手塚治虫の「再考」 松山大でマンガ学会始まる
宮本大人のミヤモメモ ■マンガ学会は充実してました、よ?
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