結
3月3日ひなまつりの日の夜、「上町台地100人のチカラ!」のゲストスピーカーとして私がお話しさせていただく機会をえました。場所は地域交流スペース 結
テーマはもちろん「手塚治虫と大阪」です。

このお話をくださったのは、仕事でもお世話になっているHさん。
大バンメンバーAさんの結婚式で彼女の長年の友人であるHさんにお会いした際に依頼されたのでした。
「田浦さんワールドそのままでいいですからお話しください」との旨。

「まちあるきでガイドしながらなら話せるんですが…」
と躊躇する私に、その場に居合わせた大バンの高岡さんの一言。
「大丈夫だよ。歩きながら喋るか止まって喋るかだけの違いやから。」

初めて近代建築のガイドをすることを決めた時も、再びガイドコバンとしてガイドをすることになり、手塚治虫ゆかりの地ツアーを実現までした時も、高岡さんの一言は、私が迷っている時にうまく背中を押してくれているような気がします。

人前で“講演”なんてしたことがなかったのですが、10人程度の小さな勉強会でパワーポイントも使えるということでお引受けしました。

なにせ人前でゲストスピーカーとして話すのは初めてだったので、配布資料とパワーポイントと自分用の原稿はしっかり作りこんでいきました。だいたい1時間くらいで、というお話だったのですが、7時から開始して終わったのが9時前。2時間近く一人で喋りつづけたことには我ながら驚きました(笑)。

上町台地100人のチカラ

「上町台地からまちを考える会」ということで、昭和20年代、たくさんの出版社が立ち並んび、『新宝島』などの赤本が戦後漫画の出発点となった松屋町の話から始めました。適塾、石原時計店、電気科学館、朝日会館、そして最後に『紙の砦』で描かれた梅田、今はなき旧阪急梅田駅コンコース、『アドルフに告ぐ』や『ブラック・ジャック』に描かれている阪急百貨店のことで話を締めました。

上町台地100人のチカラ

現地でガイドすることは臨場感があるので、それも楽しいのですが、パワーポイントを使っての説明は、なんといっても図版と写真を交互に見せながら話せるというメリットがあります。特に適塾の写真と『陽だまりの樹』のカットとを並べて見せたのはなかなか好評でした。このパワーポイントファイルは我ながら力作なので、またどこかで披露できる機会があればいいなと思います。

上町台地100人のチカラ

素敵なひなまつりの夜を過ごさせていただきました。
ご参加下さった皆様、本当にありがとうございました。
上町台地100人のチカラ

上町台地100人のチカラ

▼参加者からのひな祭りのお菓子の差し入れをいただきました。
ひなまつり

▼「結」1階には雛人形が飾られていました。
結

▼懇親会のご飯もひなまつり♪
結



下記はこの会のために用意した原稿です。大部分は「虫マップ」から編集したものです。
約1時間半の講演の原稿なので、めちゃ長いですが、お暇な方は読んでください(笑)。

手塚治虫と大阪


漫画家・手塚治虫は、手塚粲(ゆたか)、文子の長男として1928年11月3日(文化の日)に大阪府豊中市に誕生しました。当時は明治節(明治天皇の誕生日)だったことから「治」と命名されました。本名の「治」に「虫」の字を加えた手塚治虫というペンネームを使い始めたのは小学5年生。昆虫採集に夢中だった手塚治虫が大好きだったオサムシからその名前を付けました。

豊中、岡町、曽根近辺を二度転居したのち、5歳で兵庫県宝塚市へ転居。祖父・手塚太郎が死去したことがきっかけで、祖父の家があった宝塚に移り住みました。

手塚治虫は幼稚園には通うことなく、6歳で池田にある池田師範附属小学校に進学。(1935年)のちに多大な影響を与えることとなった石原時計店石原実さんと出会います。池田付属小学校は6年間クラス替えがなく、6年間ずっと「西組」のクラスメートと過ごしました。

1941年4月、十三の北野中学へ進学し、戦争体験をします。手塚漫画の中で生涯に渡って訴え続けた反戦メッセージは北野中学時代の戦争体験から生まれたものです。旧制中学は5年制であったが、戦争激化により4年で卒業。そして1945年、中之島の大阪大学へと進学 し、インターンを終了するまで6年間在学。
漫画家として上京するまでの約25年間を関西で過ごしました。
このため宝塚から大阪にかけて特に阪急沿線に手塚治虫のマンガやエッセイに登場するスポットが数多く 残っています。

今日は「上町台地からまちを考える会」ですので、まずは松屋町と手塚治虫の関わりをお話したいと思います。

松屋町
戦後まもない昭和20年代の初め、松屋町には赤本と呼ばれる少年向け漫画の出版社や玩具屋などが建ち並んでいました。大阪大学医学部生の手塚治虫は、授業が終わると角帽をベレー帽に変え、漫画の原稿を手にこの松屋町に向かったそうです。

戦後漫画の金字塔となった「新宝島」や「メトロポリス」など初期作品など数十冊を、ここ松屋町から世に出しました。松屋町界隈は戦後マンガ史の出発点といえると思います。

当時の漫画単行本は目立つように表紙に赤い色を多く用いたことから「赤本」と呼ばれていました。当時の漫画はまだまだ地位が低く、駄菓子や玩具と同じような扱いだったそうです。

ちなみに少女漫画家の牧美也子さん(松本零士さんの奥さん)が松屋町に住んでいて、マンガを描き始めたのは松屋町の東光堂という出版社だったそうです。


私は、大阪生まれの大阪育ちなのですが、自分が慣れ親しんだ町の物語と手塚治虫ストーリーとを縦糸と横糸の関係で語れることの面白さを感じています。

虫マップの発行
私達兄弟(田浦紀子・高坂史章)は、手塚治虫ゆかりの地を記した研究誌「虫マップ」を発表しました。宝塚の御殿山から出発し、池田、岡町、十三、中津、梅田、中之島とエリアを拡大。改訂を重ねながら様々な媒体で発信し続け現在に至ります。

昨年10月に大阪商工会議所主催で船場・中之島界隈の手塚治虫ゆかりの地ツアーを開催しました。お手元にお配りしたのがそのツアーで配布した「大坂発見まちあるきツアーマップ 手塚治虫と大阪」です。今日はこのエリアを中心に、手塚治虫ゆかりの地をご紹介したいと思います。


適塾
淀屋橋のビジネス街の一角にひっそりと残る適塾。現在の大阪大学の前身であり、『陽だまりの樹』の舞台のひとつとなった適塾は、幕末の大阪にあって多くの逸材を世に送り出してきました。手塚治虫の曾祖父・手塚良庵もその一人です。
手塚治虫と大阪

適塾(適々斎塾)は蘭学者・緒方洪庵が、天保九年(1838年)から文久二年(1862年)に幕府の奥医師として江戸に迎えられるまでの24年間にわたって開いた学塾です。現在、その建物は重要文化財に指定され、館内には洪庵が使っていた薬箱、ヅーフ・ハルマ、解体新書など当時を知る貴重な史料が数多く展示されています。

急な階段を上って奥へ進むと学生大部屋。部屋の真ん中の柱には刀傷があり、血気盛んな塾生達の様子が思い浮かびます。この部屋で当時何十人もの塾生が勉強し、寝起きしていました。塾生の人数が多かったために、一人あたり一畳分の面積が割り当てられるだけだったそうです。さらに奥の小部屋には、塾生約600人の「姓名録」が保存されています。この部屋で、『陽だまりの樹』に登場する手塚良庵の漫画のカットと手塚治虫の写真が額に入れられて展示されていました。手塚作品はここでも生きていたのですね。

福澤諭吉の『福翁自伝』には適塾の様子が書かれており、その中には手塚良庵にまつわるエピソードもあります。例えば、福澤諭吉たちが仕組んだ遊女のニセ手紙に手塚良庵が騙されるエピソード。他にも、福澤諭吉が裸でいたところに洪庵の妻・八重夫人が現れて赤面した話、豚を解剖したのち食べてしまう話、橋の上から小皿を投げた話、船の上でアンモニアを作った話など。これらのエピソードを手塚治虫は上手くアレンジして『陽だまりの樹』の作品中に取り入れています。

余談ながら、手塚治虫の出身校・北野中学には緒方洪庵の孫も在籍していました。また、手塚治虫が大阪大学医学部附属医学専門部に進学したことを思うと、適塾との深い縁を感じずにはいられません。

除痘館跡
手塚治虫と大阪
緒方洪庵は種痘を広め、天然痘の予防に努めた人物として知られています。手塚良庵は適塾に学び、後に江戸で種痘所の設立に尽力しました。このことから、適塾の南にある除痘館跡(洪庵記念会・緒方ビル1階)に『陽だまりの樹』のイラストが設置されました。緒方洪庵と手塚良庵が種痘をしている様子が描かれています。

カール・ツァイスⅡ型プラネタリウム
手塚治虫と大阪

「淀屋橋交叉点の角のビルに石原時計店という立派な店がある。これは戦前、心斎橋にあった老舗で、現在の社長の石原実氏は、ぼくの小学校のクラスメートだった。彼がぼくを星の世界へいざない、プラネタリウムと結びつけてくれたのである。」
手塚治虫はエッセイ『懐かしのプラネタリウム』の冒頭でこう語っています。

1937年、四ツ橋に大阪市立電気科学館が開館しました。その目玉となったのが日本初のカール・ツァイスⅡ型プラネタリウムです。手塚治虫が電気科学館へ行くきっかけとなったのが小学校の同級生、石原実さん。当時、四ツ橋から徒歩5分の心斎橋南詰に石原時計店があり、「今度近くに電気科学館ができたから」ということで、石原さんのお父さんに連れられて遊びに行ったのが最初だったそうです。以来、手塚治虫は天体に魅せられ、通いつめるようになりました。電気科学館のプラネタリウムに強烈な印象を受けた手塚治虫は、のちに同機を『漫画天文学』の中で登場させています。また、プラネラリウムを真似て石鹸箱に穴を開けた自家製プラネタリウムを作り、自宅の押入れで友人達に披露したというエピソードも残っています。

手塚治虫は、電気科学館の会報誌「月刊うちゅう」にこれらのエピソードを綴ったエッセイ『懐かしのプラネタリウム』を発表。そして1987年4月4日、電気科学館50周年を機に講演を行いました。これらは、その際に描かれた絵です。

電気科学館はこの二年後の平成元年(1989年)5月に閉館しました。

千成一茶の銘菓プラネタリューム
かつて電気科学館の売店で「プラネタリウム」というお菓子が販売されていました。長めのクッキーに銀色の砂糖粒を散らし、星空に見立てたお菓子で、手塚治虫はその思い出を『懐かしのプラネタリウム』で語っています。このお菓子が大阪市都島区の千成一茶で復刻販売されています。当時販売されていたクッキーから洋風饅頭にアレンジされ、名前も「プラネタリウム」から「プラネタリューム」とレトロ感のあるネーミングになりました。店内には手塚治虫から店主に宛てられたお礼状が展示されています。

大阪朝日会館
手塚治虫が生涯追い求めた夢・アニメーション。その原点は、幼少期に触れたディズニーなど海外の漫画映画でした。その漫画映画との出会いを手塚治虫は自伝『ぼくはマンガ家』でこう語っています。
「大阪の朝日会館で、毎年正月に漫画映画大会をやる。それを母に連れられて正月三日に観に行くのが、わが家の恒例であった。ポパイやベティ・ブープものと一緒に当時まだめずらしかったディズニーのカラー漫画ものをやっていた。」

大阪朝日会館は1926年(大正15年)に開館し1962年(昭和37年)に閉館。エジプト式を基調にしたデザインで、金縁のガラス窓に新聞の印刷インクを塗った黒い建物。常に内外の一流の音楽、演劇、映画が上演され、大阪の近代文化の中心でした。周辺には朝日ビル、中央電気倶楽部、大阪市中央公会堂、ガスビル、ダイビルなどの近代建築が数多く現存することを思うと、ここが大阪の一大文化ゾーンだったことも頷けます。

ただ、手塚治虫自身は朝日会館の建物についてあまり印象に残らなかったのでしょうか。エピソードとしてあげているのは、次のようなことでした。ディズニーの漫画映画を観に大阪駅からタクシーに乗って朝日会館へ。到着したものの、なんと母親が札入れを忘れ、タクシーの運転手に「一円にまけなさいよ。いいじゃないの、正月だから、ね、運ちゃん」と。旧式な軍人の家庭に育った母の、意外な言葉遣いが幼な心に印象的だったと語っています。

また、阪大医專時代、手塚治虫は学生劇団・学友座に所属していました。その学友座の公演も朝日会館で開催されることが多かったそうです。

朝日会館が姿を消したのち、その地には朝日新聞ビルが建てられました。隣接する朝日ビルディングを「く」の字状に囲むように建っています。そして、朝日会館の文化事業はのちにフェスティバルホールへと引き継がれました。

ところで朝日会館の東隣りにあったのが、昭和のモダン建築として有名な朝日ビルディングです。1931年(昭和6年)竣工のオフィスビルで、設計は竹中工務店の石川純一郎。ステンレス・スチールなどの金属パネルを外装に使用し、最上階に曲面ガラスを使うなど非常に斬新なデザインのビルでした。当時は喫茶室や高級レストラン「アラスカ」があり、手塚家もここで食事をした後に映画を観に行ったとのこと。「アラスカ」は谷崎潤一郎の『細雪』にも登場する老舗で、現在も朝日新聞ビルの13階で営業しています。

毎日新聞社本社ビル跡
手塚治虫は1946年正月よりスターとした四コマ漫画『マアチャンの日記帳』でデビュー。連載は当初1ヶ月の予定が3ヶ月に延長され、好評を博しました。本作が掲載されたのが毎日新聞社発行の『少国民新聞』(のちの『毎日小学生新聞関西版』)でした。大阪大学医学部附属医学専門部在学中だった手塚治虫は、当時中之島にあった同大学への通学途中に、この毎日新聞本社に原稿を届けていました。現在、同地には堂島アバンザが建っており、毎日新聞大阪本社堂島社屋の正面玄関部がモニュメントとして復元保存されています。

『紙の砦』
手塚治虫の北野中学時代の戦争体験をもとに描かれた自伝マンガ。「紙の砦」の紙はマンガのことであり、マンガを描くことで、戦争へのささやかな抵抗を意味します。

『紙の砦』あらすじ
南野中学の大寒鉄郎は満員電車から慌てて降りた所で岡本京子に出会う。鉄郎は漫画家を目指し、京子は宝塚音楽学校の生徒であり将来はオペラ歌手を目指していた。しかし、戦争は激化して京子は顔に大やけどを負ってしまう。 1945年8月15日、町の明かりを見た鉄郎は漫画家になることを決意するが京子はそのまま行方が分からなくなるのだった。

これはその『紙の砦』のラストシーンの台詞です。

「あかりがついているぞっ。あかりがついていても爆撃 されない!!やっぱり終わったんだ」

この戦争が終わった喜びをもう少し具体的に語ったエッセイが「COM」に書かれたエッセイ「ぼくのまんが記 」です。

ぼくはその夜、自宅の宝塚から、阪急電車に乗って、 大阪へでていった。車内はガランとして幽霊電車のようにさみしかった。「あっ、大阪の町に灯りがついている!」ぼくは目を見はった。阪急百貨店のシャンデ リアが目もくらむばかりに輝いている。何年ぶりだろう!灯りがついたのは。「ああ、ぼくは生き残ったんだ。幸福だ」 これが平和というものなんだ!

(COM’68 1 収録「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」)

その場所が今はなき旧阪急梅田駅コンコースです。

阪急ビルディングは、1929年に世界初のターミナル・デパート(鉄道駅を併設した百貨店)として建てられました。現在の阪急梅田駅はJRの北側にありますが、1971 年までは現在の阪急グランドビルのあたりに駅があり、改札を出るとすぐ、このシャンデリアがこうこうと輝いていたというわけです。

また、『COM』連載時の挿し絵で大シャンデリアが描かれていますが、阪急百貨店の社史によれば、大シャンデリアは金属回収令により供出させられていたそうです。したがって、手塚治虫が見 たものは、もう少し小振りの、別の照明であったかもしれません。あるいはこの話も手塚治虫氏のフィクションだったかもしれません。

ちなみに手塚治虫は、大阪市街地へ行き来する場合(大学 時代は毎日)必ず通るこの阪急ビル近辺が思い出として強く残っているのか、作品中に何度か登場させています。

○『アドルフに告ぐ』で、仮釈放された峠が、仁川警部と一緒に、彼の自宅に向かおうとするシーン(話す二人の後ろを本作 品での仇役・ランプの部下が尾行しながら、「やつは郊外電車に乗る気です。」などと報告しているシーン)。

○『ブラック・ジャック』の「アリの足」のラストシーンで小児麻痺の少年が広島からの旅の末辿り着いた場所が大坂の阪急百貨店前。
手塚治虫と大阪

以上で「手塚治虫と大阪のご紹介を終わらせていただきます。
またの機会がありましたら、次は手塚治虫ゆかりの地を現地でご案内できればよいと思います。

ご清聴ありがとうございました。
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