講演終了後、参加者全員で記念撮影。その後地階ギャラリーで開催された併設展を観に行きました。
今年も校内所蔵の手塚関連史料が展示されました。
併設展

▼アトムが背負っていた校旗はこれ?
校旗

こちらは、中学時代のデッサン。
左が1年、右が2年のときに描いたものです。
北野中学時代のデッサン

北野百周年記念講演で描かれたイラスト。
北野百周年記念講演で描いたイラスト

北野百周年記念講演で描いたイラスト

北野OBの方に「クレオパトラの絵ってめずらしいんですか?」と聞かれ答えに窮してしまいましたが、講演が行われた1973年という時期を考えると1970年の作品だから時期的にはあってますね。
北野百周年記念講演で描いたイラスト

このイラストは中学時代プール堀りをさせられた時の様子です。
なぜか59期生が借り出され、苦労したそうで(笑)。
北野百周年記念講演で描いたイラスト

【参照】
星子英雄さんのレポート

「頭身」の説明です。
北野百周年記念講演で描いたイラスト

講演内容は六稜WEB「がちゃぼいまんが道:手塚治虫さん」に掲載されています。

また、CD「手塚治虫の遺言」Disk1に収録されていますので、そちらを聞いてみてください。


『紙の砦』のパネル展示
紙の砦

展示物に混じって…あら、『虫マップ』やん♪
虫マップの展示


中学時代の作文

こちらは手塚先生が中学1年の頃に書いた作文です。「蟻の貯水場」というタイトル。拡大写真をご用意いたしました。読みたい方はぜひ頑張って読んでみてください(笑)。

蟻の貯水場

六稜文集


ところで昭和20年8月15日、終戦の日のエピソード。『紙の砦』やエッセイ等で手塚先生は度々語っていらっしゃいますが…。おそらく終戦の日に「いてもたってもいられず大阪に出てみた」のは本当だと思います。でも阪急のコンコースで万歳三唱して「マンガ家になれるぞ」と思ったってのはフィクションじゃないかと思います(笑)。というよりも「あとづけのエピソード」というか。だって、普通そんなに人間の気持ちって簡単に切り替えられないと思うんですよ。昨日まで戦争を賛美する文を綴っていた者が日本が負けて戦争が終わった途端生き残ったことを素直に喜べるかどうか。ただ、その後日本国民全員が無理にでも意識を変えなければならないことが起こったのは史実なわけで、その意味では手塚先生は考えの切り替えが早かったのかもしれません。そして、「戦争」と「終戦」がもたらしたショックは手塚先生の胸に深く深く刻まれ、それが生涯のテーマとなったのでしょう。

この戦争で、手塚先生は同級生を二人亡くしています。写真は太平洋戦争中に亡くなった生徒への「追悼の辞」。
追悼の辞


これは1945年6月にB29の爆撃を受けた際に亡くなった生徒がかぶっていた鉄兜。13歳の若さだったといいます。その歴史を示す弾痕壁が北野高校内に保存されているので、岡原さんに案内していただきました。
鉄兜


(次回へ続く)

【関連ページ】
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