ファン大会で研究発表させていただいた時の写真を手塚プロダクションからいただきましたので、掲載します。

手塚ファン大会研究発表6

手塚ファン大会研究発表5

手塚ファン大会研究発表4

手塚ファン大会研究発表1

手塚ファン大会研究発表3

同じく研究発表された扇谷正敏さんと。

手塚ファン大会研究発表2

※写真は手塚プロダクションの許可を得て掲載しております。
※モニター内の手塚作品画像の著作権は手塚プロダクションにあります。


手塚プロニュース 手塚治虫ファン大会2009 写真で見る当日のもよう
にも掲載いただきました。


■追記
皆さんがやたらベレー帽に反応するので…(笑)。
私が持っているベレー帽3種です。
白いのが初代、水色が2番目に買ったもので、ベージュが最後に買ったもの。
といってもどれも独身時代に買ったものですが^^

ベレー帽

そして、ベレー帽につけて行った「リボンの騎士」の缶バッジ。

リボンの騎士缶バッジ

↓ついでに昔から描いているのりみの似顔絵。

norimi.gif

この間のナカノシマ大学の後のオフ会で何故か「サインして下さい」と言われて書いたのりみ似顔絵入りサイン(笑)。

のりみサイン


下記、研究発表の原稿全文です。




手塚治虫と大阪

                                   田浦紀子


虫マップの発行

皆さんこんにちは。ご紹介いただきました田浦紀子です。宝塚から大阪にかけて関西の手塚先生ゆかりの地を記した研究誌「虫マップ」をインターネットや手塚治虫ファンクラブ会誌などで発表しております。改訂を重ねながら発信し続けて十年あまりになります。

手塚治虫ゆかりの地ツアー

先日10月24日に、私がガイドを務める「OSAKA旅めがね手塚治虫ゆかりの地めぐり」を開催しました。ツアーで配布したのがこの「大阪発見まちあるきツアーマップ 手塚治虫と大阪」です。お手元にマップがある方はご参照ください。今日はこの北船場・中之島・梅田エリアを中心に、手塚先生と大阪のかかわりについてお話したいと思います。

 
適塾
 
『陽だまりの樹』は手塚先生の曽祖父・手塚良庵を主人公にした後期の代表作で福澤諭吉の『福翁自伝』をヒントに描かれた作品です。手塚良庵は蘭学者・緒方洪庵が開いた適塾に359番目の門下生として入門しました。

適塾は現在の大阪大学の前身で、福沢諭吉、原田磊蔵、大鳥圭介など多数の門下生を輩出しました。現在は重要文化財に指定され、内部を見学することができます。
 
良庵が転げ落ちたほど適塾の階段は非常に急です。

2階の塾生大部屋では何十人もの塾生が寝起きしていました。人数が多かったために、一人あたり一畳分の面積が割り当てられるだけだったそうです。

『陽だまりの樹』でも大鳥圭介が良庵の刀を借りて柱に切りつけるというシーンがありましたが、塾生大部屋の真ん中の柱には刀傷があります。

現在ではあがることができませんが、適塾の隣の公園から物干しを見ることができます。
『陽だまりの樹』では、豚の頭を解剖するシーンや、福沢諭吉や手塚良庵たちが裸で花火を鑑賞するシーンで登場しました。

除痘館跡

緒方洪庵は種痘を広め、天然痘の予防に努めた人物として知られています。手塚良庵は洪庵に学び、後に江戸でお玉が池種痘所の設立に尽力しました。このことから、適塾の南にある除痘館跡(洪庵記念会・緒方ビル1階)に『陽だまりの樹』のイラストが設置されました。緒方洪庵と手塚良庵が種痘をしている様子が描かれています。


石原時計店

手塚先生はエッセイ『懐かしのプラネタリウム』の冒頭でこう語っています。
「淀屋橋交叉点の角のビルに石原時計店という立派な店がある。これは戦前、心斎橋にあった老舗で、現在の社長の石原実氏は、ぼくの小学校のクラスメートだった。彼がぼくを星の世界へいざない、プラネタリウムと結びつけてくれたのである。」

現在の石原時計店は淀屋橋にありますが、当時は心斎橋にありました。

これは大正時代の石原時計店の包装紙です。心斎橋時代の石原時計店は5階建ての大変モダンな建物で、セセッション様式の代表作として建築史上知られています。時計のほか、ダイヤモンド、写真機、楽器、自転車。これらのものが一緒に売られているのは今ではびっくりすることですが、要するに当時の輸入もの全般を扱っていた非常にハイカラなお店だったということです。

手塚先生の同級生で、現在の石原時計店の社長・石原実さんは「鉄腕アトム」などに登場する「金三角」のモデルと言われています。

大阪市立電気科学館

1937年、手塚先生が小学校3年生の頃、四ツ橋に電気科学館が開館しました。その目玉となったのが日本初のプラネタリウムです。四ツ橋から徒歩5分の心斎橋南詰に石原時計店があり、「今度近くに電気科学館ができたから」ということで、石原実さんのお父さんに連れられて行ったのが最初だったそうです。以来、手塚先生は天体に魅せられ、通いつめるようになりました。

この電気科学館のプラネタリウムは、現在中之島の大阪市立科学館に展示保存されています。

ツァイスⅡ型プラネタリウムに感激した手塚先生は同機を『漫画天文学』に登場させています。

『漫画天文学』のカットの上に描かれた手塚先生のサイン。

1987年4月4日、電気科学館50周年を機に手塚先生がご講演された時の写真です。

これらは、その際に描かれた手塚先生の直筆画です。
アトムがプラネタリウムで居眠りをしている絵が描かれています。


『紙の砦』

『紙の砦』は手塚先生の北野中学時代の戦争体験をもとに描かれた自伝マンガです。

南野中学の大寒鉄郎は満員電車から慌てて降りた所で岡本京子に出会う。鉄郎は漫画家を目指し、京子は宝塚音楽学校の生徒であり将来はオペラ歌手を目指していた。しかし、戦争は激化して京子は顔に大やけどを負ってしまう。 1945年8月15日、町の明かりを見た鉄郎は漫画家になることを決意するが京子はそのまま行方が分からなくなるのだった。

『紙の砦』のクライマックスで主人公大寒鉄郎が戦争が終わったことを喜ぶシーン
「あかりがついているぞっ。あかりがついていても爆撃されない!!やっぱり終わったんだ」

これと同じ内容の文章ががCOM’68 1 「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」に書かれています。

ぼくはその夜、自宅の宝塚から、阪急電車に乗って、 大阪へでていった。車内はガランとして幽霊電車のようにさみしかった。「あっ、大阪の町に灯りがついている!」ぼくは目を見はった。阪急百貨店のシャンデ リアが目もくらむばかりに輝いている。何年ぶりだろう!灯りがついたのは。「ああ、ぼくは生き残ったんだ。幸福だ」 これが平和というものなんだ!
(COM’68 1 収録「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」)


阪急ビルディングは、1929年に世界初のターミナル・デパート(鉄道駅を併設した百貨店)として建てられました。現在の阪急梅田駅はJRの北側にありますが、1971 年までは現在の阪急グランドビルのあたりに駅があり、改札を出るとすぐ、このシャンデリアがこうこうと輝いていたというわけです。

また、『COM』連載時の挿し絵で大シャンデリアが描かれていますが、阪急百貨店の社史によれば、大シャンデリアは金属回収令により供出させられていたそうです。したがって、手塚先生が見たものは、もう少し小振りの、別の照明であったかもしれません。あるいはこの話も手塚先生のフィクションだったかもしれません。


旧阪急梅田駅コンコースが無くなる際、この場所への思い入れからスケッチをしに何度も通いつめました。また50号サイズの日本画でも旧阪急梅田駅コンコースを描き、展覧会に出展。現在は私の自宅の玄関に飾っています。

ちなみに手塚先生は、大阪市街地へ行き来する場合(大学 時代は毎日)必ず通るこの阪急ビル近辺が思い出として強く残っているのか、作品中に何度か登場させています。

『アドルフに告ぐ』

釈放された峠草平が仁川警部とともに彼の自宅に向かうシーン。
仁川警部「なーに、電車に乗ってふたつほど向こうの駅やさかい」と言って阪急梅田駅のある阪急ビルに向かっているわけです。そして、峠草平を追うアセチレンランプの部下たちか「やつは郊外電車に乗る気です」と追うというシチュエーション。このコマの向こうに阪急ビルが描かれています。


『ブラック・ジャック』「アリの足」

小児麻痺の少年ミッちゃん(キャラ名:ケン一)が広島からの徒歩旅行の末たどり着いたのが大阪。ラストで大坂・梅田のシンボルとして阪急百貨店が描かれています。後ろに見えるのは村野藤吾が建てた通風塔、さらにその後ろに阪急の阪の字と阪急のロゴマークが見えます。


新阪急ビルあたりから阪急百貨店の南側をのぞんだ構図。
「アリの足」のラストシーンと同じ方向で描いた日本画。

このように大坂市内に手塚先生が見た風景がたくさん残っております。
また機会がありましたら、今度はぜひ現地で手塚治虫ゆかりの地をご案内できればと思います。

ご清聴ありがとうございました。
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