「治虫忌」(じちゅうき)…手塚治虫先生の命日のことをこう呼ぶそうです。
「手塚治虫を語る会」って実にそのまんまなタイトルで最後まであまり良いアイデアが思いつかなかったのです。
「命日」って言葉を入れると暗くなるしあれこれ悩んであまり良い結論が出なかったのですが、夫がつけた今回のレポートのタイトルは
「治虫忌を偲び、豊中に集う」

ええタイトルやわぁ・・・。
夫の日記のタイトル、なんかそのまんま次の手塚イベントに使えないかしら?なんて思ったけど、「治虫忌」なんてそれこそ手塚ファンでないと読めないし解らないですよね。

手塚治虫を語る会

「治虫忌を偲び、豊中に集う」

2月9日は、手塚治虫先生のご命日である。
1989年のその日、浦メは高校3年生の冬であり、確か大学入試には通っていたかと記憶しているが、とにかく朝刊の第一面を見てゲッ!と吃驚したものだ。
次に吃驚したのは、記事中に「享年60歳」とあった事だった。ムチャクチャ若いやんけ!と二重にショックだった。
それで憑かれたように講談社版手塚治虫全集を買いまくり、東京と京都の手塚治虫ファンクラブに入会し、会誌を通して今の嫁さんと知り合い、尻に敷かれて現在に至っている。

その嫁さんが、またまた手塚イベントを企画した。
手塚先生が2歳~5歳まで過ごされた豊中市曽根に、原田城という戦国時代の城の址があり、そこにある住友鉱山重役の旧居が登録文化財として保存されている。今回はそこの応接室をお借りしてのトークイベント。

手塚先生の北野高校時代の同級生にしてカメラマン・岡原進さんをメインゲストに迎え、北野時代の思い出と、雑誌の仕事で虫プロを取材した時の思い出などを語ってもらうというもの。

浦メは、その前日まで一週間山陰地方をウロチョロして、疲れきって帰宅するなり
「明日の豊中のイベントの司会して!」
と嫁さんから簡易な台本を突き付けられ、拒否すれば家から追い出されるから中村主水よろしく「ハイ・・・」と消え入りそうな声で引き受けたのであった。

とよなか・歴史と文化の会スタッフの方のご挨拶でスタート。
会場は30人定員ぴったり埋まり、大入り満員。
進学イベントの仕事をやってる関係上、人が集まるとホンマに安堵するわぁ。

台本には「本日は寒い中ようこそ」なんてト書きがあったんだが、この日は小春日和の一歩手前といった気温。だから台本なんざ無視してアドリブをかましてやった。
「台本にはこう書いてるんですけど、今日は温かいですよね。小春日和ということで、これも手塚先生のおかげかと思います。」
で、喋ったんだけれども、これは昔、豊中でやった規模の大きい手塚トークイベントでも痛感したんやけど、終わってから
「ああ、もうちょっとこう言えば良かった」と反省しきりであった。

手塚先生の戒名「伯藝院殿覚圓蟲聖大居士(はくげいいんでんかくえんじゅしょうだいこじ)」も言う予定だったのだが、飛んでもうた。
やはり儂も緊張しとったんやろか。
嫁さんは「上出来やった」と褒めてくれたが・・・

浦メの前説ショーを経て、嫁さんが前座として、阪急沿線における手塚治虫ゆかりの地をパワーポイントで紹介。
言わばビートルズ武道館公演の前座を務めたドリフみたいなもんだ。

嫁さんの喋りは、少々トチったものの、全体には流暢であった。
浦メはそばで聞いていて、「大きく育ったものよのぉ・・・」と遠い目になった。
しかし、時々なんの説明もなく「バンダーブック」とか「ガチャボイ頭」なんて手塚ファンでないと知らない手塚用語を、周知の知識の如く言うもんだから、フォローの合いの手を入れてやった。だから途中から夫婦対談めいてきたのだった。

手塚治虫を語る会

前座がなんとか無事終わり、いよいよ岡原さんのトーク。
この方は、同級生だから当然手塚先生と同年齢で、御歳82になられる。しかし相変わらずお達者だ。なんせトークの間、ずーっと立ちっぱなしだった。
そして相変わらずお話が上手だ。過去に2回(北野高校のOBを呼んで来てのトークイベントも含めると3回)聞いてるんで、話の内容は既知のものであったけど、話の上手さに惹き込まれる。
別段、学校の先生やってらしたわけでもないのに、司会業やってらしたわけでもないのに。浦メも嫁さんも太刀打ちでけへん。

北野の美術部時代の手塚先生に関するエピソード(後輩たちのリクエストに応じて教師の似顔絵を次々と描いて喝采を浴びた話、軍事教練寮で夜、寝てる友人たちの寝姿をマンガにスケッチして貼り出したりした話、等々)~岡原さんご自身の軍隊経験も交えられ、単に手塚治虫語りに留まらないリアルな戦争体験語りにもなっていた。
こういう経験した人から直接お聞きできるというのは、本を読むのとはまた違った“重み”がある。だから貴重なのだ。

後年、手塚先生が虫プロを作った際に、岡原さんが訪問し「ある街角の物語」を見せてもらい感動した話や、その後、雑誌「教育大阪」の取材で撮影された写真を披露された。また、ラストで語られた手塚先生が叙勲を断られたエピソードなど、何度聞いてもええ話やわぁ。

万雷の拍手の内に、岡原さんのお話は終了。続いてお客さんの中で、手塚先生に関する“お宝”をお持ちの方をご紹介するコーナーへと移った。

事前に、手塚ファンクラブ会員でもあるY田さんにサイン本を持って来てもらう話ができていて、披露していただいた。1986年に尼崎市で行われた「手塚治虫ワールド」で行われたサイン会で『陽だまりの樹』にサインをいただいたそうだが、手塚先生は一人一人に「手塚治虫」というサインだけでなく、イラストを描いて下さったそうだ。Y田さんがお持ちだったのは『陽だまりの樹』だったので、手塚先生ご自身のイラストが描かれた。

手塚治虫を語る会22

それから、初期キャラクターの色紙(ヒゲオヤジ、ケンイチくん、ミイちゃん)が紹介された。これは、現在、手塚治虫記念館に寄贈・展示されている。

それ以外にも手塚先生の1歳上のご婦人が、1969年の池田附属小学校の同窓会で先生に手帳の裏に万年筆で描いてもらったイラスト入りサインを披露して下さった。アトムとウランの二人が抱き合って踊っているもので、実に温かい“いい画”であった。一瞬、「羨ましい」と思った。

手塚治虫を語る会20


なんとか無事、成功。よかったよかった。

岡原さんはじめ、集まって下さったお客さんもそうだし、サイン本を持って来て下さったY田嬢、名古屋からわざわざ来て下さったマイミク・ヘリトンボさん、忙しい中なんとか都合つけて来て下さったマイミク・みやおさん、カメラ係を担ってくれた義弟くんに感謝感謝。

そういや岡原さんの話の中にも登場した「大和ハウス工業のミゼットハウス」、なんとこの会場敷地内にも展示されていて、最後に歴史と文化の会の方が紹介してくだすったんで、みんなで見物。
“小さな家”って意味で、まあ今で言うプレハブ小屋だ。
説明チラシに載ってた当時の宣伝スチール写真(ミゼットハウスの窓からモデルが顔を出して笑っている)に、岡原さんが「あ、これ俺が撮ったもんだよ」にビックリ。

いろんな意味で、貴重な一日であった。

ミゼットハウス

ミゼットハウス

【のりみのレポート】

「手塚治虫を語る会」開催しました!
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