池田理代子先生トークショー@京都国際マンガミュージアム


京都国際マンガミュージアムで開催中の「池田理代子 ベルサイユのばら原画展」にあわせ、池田理代子先生のトークショーが3月27日に開催されました。会場はほぼ満席、約250人の聴衆で埋め尽くされていました。
池田理代子先生が「ベルサイユのばら」を執筆したのは24歳、構想を思いついたのはなんと17歳の時だったそうです。高校の夏休みの課題図書で、シュテファン・ツヴァイクの「マリーアントワネット」を読み、「いつか私のマリーアントワネットを書きたい。漫画か小説か映画か舞台か解らないけれど、私のマリーアントワネットを書こう。」と決心。その時に既に「ベルサイユのばら」というタイトルが決まっていたそうです。
池田理代子先生の漫画家デビューは21歳。4回の連載と増刊号への書き下ろしという破格の扱いで雑誌デビューした池田先生は、3年の間に「自分が書きたいものを書くにはどうしたらよいか」というノウハウを得て着実にアンケートでの人気を上げていきました。そして「長編を」との声がかかった際、「書きたいものがあるんです」と「ベルサイユのばら」の構想を編集部に持ちかけたそうです。「女子供に歴史ものは受けない」という声を押し切り「必ず当てますから」と宣言し、「ベルサイユのばら」がスタート。まさに「有言実行」ですね。
作品をヒットするために、池田先生はキャラクター設定からストーリー作りまでひたすら緻密に計算し尽くしたそうです。しかし、当時24歳の女性には、軍人が何を考えて生活しているかなんて想像がつかず、そこでリアリティを持たせたいと女性を主人公にし、オスカルが男装の麗人という設定になったそうです。オスカルのモデルは実は池田先生のお祖父さん。職業軍人の祖父の軍服姿の写真のポーズを参考にしながらオスカルを描いていったそうです。
毎週締切がある週刊誌の連載というのは、実に過酷な生活で、「女性のごく普通の幸せ」を全て犠牲にしなければ漫画家は到底続けられない生活だったと言います。その過酷な漫画家生活を支えたのは、若さと、そして当時の女性がおかれていた社会的状況だったそうです。「ベルばら」を連載していた1970年代は、女性が社会に出て仕事をすることを是とするかどうかを男性が議論していた時代であり、できれば女性は仕事を早く辞めて結婚し、子供を産んで育てることが理想とされていました。女性は男性の許可がなくても仕事をする、仕事をできる、そして、自分は仕事をしなければならない、という思いをオスカルに投影したそうです。
さらに女性漫画家の状況が過酷だったことは、自分の作品を描くことの苦労以外に「マンガ文化は活字文化よりも低俗である」という偏見とも戦わなければならなかった点でした。少女漫画というジャンルは、男性向けの漫画よりもさらに格下。だからこそ、10年経っても20年経っても読み継がれるものを描こうと、当時は作家も編集者も大変な熱意に燃えていて、マイナスをプラスに転じるモチベーションがあったと言います。
「ベルサイユのばら」では史実のキャラクターと架空のキャラクターが見事にシンクロしています。例えばロザリーは牢獄でマリーアントワネットの世話をした女中の名前から名づけられたそうですが、どのようにキャラクター作りをされたのか?との質問に、池田先生はこう答えられました。
キャラクター設定についてはひたすら論理的に考え、その人物を生かすためにまたそこに近い人物を決めていきました。キャラクターを際限なく増やしていくのは一番まずい事で、枝分かれしていったキャラクターをストーリーの流れの中で終息していく方向性が必要。「首飾り事件」を起こしたジャンヌは史実に基づいたキャラクターですが、ジャンヌを生かすためにロザリーと姉妹にしようといったキャラクター作りをされていったそうです。
会場からも質問があがりました。
Q.オスカルとアンドレは最初から結ばれることは決まっていたのですか?
A.オスカルが恋をする相手を決めてはいませんでしたが、アンドレは候補の一人でした。女性だったらやっぱり王子様タイプにいくだろうな~ということでフェルゼンを恋の相手にしたけれど、フェルゼンはマリーアントワネット一筋。だからもう一人くらい王子様タイプを出さなきゃとジェローデルを出したが、描いている途中で、どうしたって傍にいる人が強いよな~ということで、最終的にアンドレに集約していきました。アンドレが素敵になっていったのは、私がオスカルの相手はアンドレと決めてからですね(笑)。
Q.作品を描いている時「子供のために」という意識はありましたか?
A.ありました。出版社からくどいほど「これは商業誌で対象読者であるティーンエイジャーの少女にウケるものを」という意識を刷りこまれた。「好きなものを描きたいのなら同人誌をやっていなさい。これは商業誌であり一番の使命は売れる事です。だったら子供たちに訴えられるものを描きなさい。」と言われ続けました。
Q.その呪縛から解き放たれたのはいつですか?
A.「ベルサイユのばら」は私の代表作だけど、「オルフェウスの窓」は私のライフワークになるだろうという気持ちがありました。人生の不条理など、とことんの描きたいものを、という思いから、少女漫画という枠が窮屈に感じ、週刊誌から月刊誌に転向しました。
あっという間に1時間半のトークショーは終了。
本当に、薔薇のように気高く美しく、聡明な方だなぁ、と惚れ惚れしました。以前、別のトークイベントで池田先生が自分の夢について語っていらっしゃいましたが、昔は漫画家として第一線を走り続けてきて、45歳にして音楽大学に入り、現在はオペラ歌手として活躍。常に夢を追い続け、そして着実にその思いを実現し続ける生き方がかっこいい!
京都国際マンガミュージアムの「池田理代子 ベルサイユのばら原画展」は、前期と後期で展示替えを行うそうなので、ベルばらファンは是非2回行くことをお勧めします♪
余談:受付の女性がでアンドレのコスプレをしていました~!写真撮らせてもらえばよかったなー。
下記、一緒に行った金沢みやおさんのレポートです。
マンガ仲間と、京都国際マンガミュージアムにて、池田理代子先生の「ベルサイユのばら」トークショーを聞く。
トークショーは250名の定員がほぼ埋まる盛況で、熱心な中年女性ファンが8割方を占めた。
私は最近の池田先生について、あまりマンガを書かずにオペラなどに入れ込んで一途じゃないなあと思っていたのだが・・・見当はずれの浅い批判に過ぎなかった。
先生は、やりたいことが漫画にとどまらずたーくさんあって、その時その時に全精力を傾け、やりたいことの実現に邁進してきたのである。
わずか21歳でデビュー、まだ若手の24歳でスタートした「ベルサイユのばら」で社会現象とまで言われた代表作を描いてしまった。17歳の夏に読んだマリーアントワネットの評伝に強く感激し、いつの日か必ず「私のアントワネット」を書くだろう、と天啓にも近い確信にうたれたのがそもそものきっかけ(その時にすでに「ベルサイユのばら」というタイトルまで浮かんでいたと言う)。
デビュー以後、描きたいものを描かせない編集者や、女性の進出に理解の薄い社会の反発などを相手に、有無を言わせぬ結果を出し続けて連載枠をもぎ取り、歴史物は受けないとの大反対を「絶対にヒットさせます」と宣言して連載を開始し、ペン一本で勝ち得た成功だったと言う。
週刊誌連載の「ベルばら」の執筆は過酷で、心身をけずって描き続け、当時は「普通の女性の幸せは全て犠牲にする生活でした」と述懐された。(それは、ジェローデルがオスカルに言ったセリフに近いな)と思って聞いていた。剣をペンに持ち替えたオスカルが池田先生であったのだな。
明確な主張と目的意識があった。読者の少女達に「男の許しがなくったって、好きな仕事をするよ、できるよ」と示したかった。セクシャリティの違いは認めるけれど、ジェンダーに縛られる気は無い。大事なのは人としての個性だ」と信じてオスカルを描いていたそうだ。
恒例のラフスケッチをしながら思っていた。戦士オスカルは、御歳相応の堂々たる貫禄を備えられ、それはすでに、マリア・テレジア級だなと。
▼池田理代子先生(金沢みやおさん画)
