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トキワ荘塾1対談風景
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トキワ荘塾8遠景
トキワ荘塾4モニュメント前で伴さんと

11月4日(土曜日)トキワ荘跡地の日本加除出版ホールで「第9回トキワ荘塾 対談『手塚治虫の少年時代』」を開催しました。8月にトキワ荘NPO事務局の小出幹雄さんに、持田恵三さんを通じてイベントの打診をして9月にトキワ荘フォーラム、そして手塚先生の誕生日(11月3日)の直近日での日程開催がとんとん拍子に話が決まりました。私がムーブメントとなって、小出さん、伴さん、黒川さんという長針、短針、秒針を動かし、参加者が時計板となって「トキワ荘塾」というひとつの時計を作り上げたような一体感…これは小出さんのご本業が時計店だから例えるわけですが、偶然の出会いが必然の出会いになっていく充実感と確実な手ごたえを感じるイベントでした。何よりそこに手塚プロダクション出版局局長の古徳稔さんがお越し下さって話に参加して下さったのが嬉しかったですね。私が目指す「手塚プロと手塚ファンを繋ぐ架け橋」の実現に一歩近づけた気がします。

トキワ荘塾2登壇者4人

第1部は、元手塚先生のアシスタントの伴俊男さんとの対談。手塚プロダクション資料室長の森晴路さんの急逝がきっかけで『親友が語る手塚治虫の少年時代』の出版を決意したこと。『手塚治虫物語』の著者である伴さんは、まさに「手塚治虫の職人」だと思っている話などを冒頭でし、続いて伴さんのお話。1989年2月に手塚先生が急逝し、その後「アサヒグラフ」の企画で手塚治虫の伝記漫画という話が出た際、「結局、描くのはお前だ」と言われ連載することになったとのこと。池田附属小学校、北野高校を取材するにしても当時は同級生の名簿すらなかった。しかし、「手塚プロ」という名前で取材できたことで、大変好意的に取材に応じてもらったこと。森晴路さん、チーフアシスタントの福元一義さん、大阪関連では中野晴行さんに、取材でとても助けてもらったこと。連載が終わって、本の副題で悩み「揺籃」「爛漫」というタイトルを考えたが、結局採用に至らなかった。また、本の評価は、結局キャラクターが洗練されてないこと、「資料にしかならない漫画だ」と言われたことなど、淡々と飾らない言葉で当時のエピソードを語られました。
トキワ荘塾9伴俊男さん
トキワ荘塾11伴俊男さん 当時のセブンビルの絵
トキワ荘塾12伴俊男さん 福元一義さん
トキワ荘塾13伴俊男さん 「手塚治虫物語」の副題
トキワ荘塾14伴俊男さん 手塚先生の部屋の前
トキワ荘塾15伴俊男さん 「アドルフに告ぐ」制作風景
トキワ荘塾16伴俊男さん 指定記号の説明

▼休憩中、拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』と『われら六稜人2001』(手塚治虫の講演収録)の販売。
トキワ荘塾6販売本
▼対談用に用意した関連書籍
トキワ荘塾5用意した本
▼元NHKアナウンサーの小野卓司さんと。
トキワ荘塾17小野卓司さんと
▼下崎闊さん、小出幹雄さんと。
トキワ荘塾18下崎闊さん、小出幹雄さんと

第2部は「紙の砦」担当編集者の黒川拓二さんとの対談。少年画報社で「ノーマン」「鬼丸大将」と1968年から1969年の二年間「手塚番」を務め、当時、富士見台にあった手塚プロに毎日通い詰めたこと。「立って眠ることを覚えた」ほどハードな“手塚時間”を経験し鍛えられた日々だった話をされました。面白かった珍エピソードは、手塚先生が24時間体制で仕事をして不夜城となった影響で、隣の養鶏場でニワトリが卵を産まなくなり、結局クレームで当時の石田ビルを出ていかざるを得ず、近所の越後屋ビル(現・ビーフギャラリーエチゴヤ)に移ったこと。二年間の「手塚番」の後はしばらく平田弘史さんを担当することになり、手塚番を離れ1974年の夏の読み切り企画で再び手塚先生を担当することに。「タイトル『紙の砦』はどう?」と言われ、まるで映画のスクリーンに文字がバンと浮かび上がったようで「うわーっ!決まった!」と喜んで会社に飛んで帰った。それから二週間毎日手塚プロに通い詰めたこと。「毎日が修羅場の連続で…激しい季節でした。当時を思い出すたび、心が熱くなります。あの夏の日々が懐かしい…。」と当時を振り返られました。黒川さんのインタビューが掲載された『神様の伴走者 手塚番13+2』の話になり、『ビッグコミック』の担当編集者・志波秀宇さんとの親交についても話されました。最後に黒川さんはこう言われました。「手塚先生とひとつの時代を共有できたのは僕の財産でした。僕の中で手塚先生はずっと生きています。とてもハードだったので、もう手塚番は嫌だって編集者もいますが、僕はずっと先生の編集者でありたいと思います。」
トキワ荘塾9黒川拓二さん
トキワ荘塾19 「紙の砦」
トキワ荘塾20 「ノーマン」「鬼丸大将」

質疑応答タイムで真っ先に手を挙げたのは古徳さん。「『鬼丸大将』は最初原作付きだったという話だったようですか?」と質問。「うちの編集長がある作家に依頼されたものの、結局手塚先生は使わなかった。アニメと並行だったから、過密スケジュールすぎて、満足のいく作品にはならなかった。」
トキワ荘塾21 古徳稔さん

田中昭さん「なぜ手塚先生はこれほどの過密スケジュールで仕事をされたのか?」
「手塚先生の1時間は普通の人の2時間3時間分に値する濃い仕事量だった。その“手塚時間”によって鍛えられた。」と黒川さん。
「漫画を広めるために、アニメを広げるために、その一心だったと思います」と伴さん。

トキワ荘塾22 佃賢一くん

最後に佃賢一くんが挙手し『ブラック・ジャック創作秘話』の最終話についての質問。「手塚先生は、病院で何故あれほど伴さんに怒ったのか?」「解りませんね…。でも、早く独り立ちして出ていけという先生の愛情だったのでは」と伴さん。
『ブラック・ジャック創作秘話』の最終話が伴俊男さんだったのを見て「わが意を得たり」と思ったのは私だけではないと思ったのですが、皆さまいかがでしょうか?
と私の言葉に大きな拍手をいただきました。という、良いまとめ方で本会終了!

トキワ荘塾23 小室裕一さん

トキワ荘塾3集合写真
トキワ荘塾26 手塚ニアンの皆さんと

交流会、そしてトキワ荘漫画家のたまり場だった「松葉」での二次会。何の変哲もないラーメンがひときわ美味しく感じられたのたのは言うまでもありません。
黒川さんが「田浦さんの熱意に敬意を表するよ!」と何度も何度も熱く語って、別れ際にはすっかり酔ってハイタッチを繰り返して熱い思いを共有した一日でした。
トキワ荘塾24 松葉
トキワ荘塾25 松葉のラーメン
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